【力持ちの兄弟】
 
昔、富岡にお城が築かれたときの話である。
 志田の原に源兵衛、八兵衛と言う兄弟の石工が住んでいた。生まれつき大力で、無類の大飯食いであった。
 
ある時、富岡城の石垣を築くために、村人十八人が出掛けることになったが、源兵衛は「なんさま、十八人分の弁当ば食わっすんなら、仕事は二人でかたずっくるばってねえ」と自漫した。
 
村人たちが面白がって弁当を兄弟に渡すと、二人は早速、十八人分の弁当を食い終わると、大きい石を軽々運んで積み重ね、瞬く間に石垣を築き上げてしまったと言う。
 
いよいよ城が出来上がったので、村人たちはお祝いに鯛三貫目、酒五升をもって城へやって来た。源兵衛、八兵衛は「ちょうどよか、だりやみ(晩酌)じゃってねえ」といかにも惜しそうにいう。村人たちは驚いて「二人で飲みきるなら飲んでみろ」とからかうと、二人は鯛を料理もせず、頭からガリガリ食べ始め、五升の酒をペロリと飲んでしまった。酔っ払って寝るかと思っていると、二人は、「どれ、石垣のデコボコばゆうなそうかい」といって、百斤げんのうを持って、石垣の出ている部分を直して廻ったそうな。
 
二人は富岡からの帰り道、上津深江の海岸を通りかかった。浜辺に小船が二、三ぞう引き上げてあり、近くで漁師が四、五人で網を繕っている。八兵衛が「こん船は、ひとかたげぐらいかな」と言ったところ、漁師たちは、「大事な舟ば、ひとかたげとは何ごっか。そんならかたげてみろ」とカンカンになって怒った。八兵衛はこれを聞くなり、つかつかと舟のそばにやってきて「ヤァー」と掛け声もろとも、舟を高々とさし上げ、近くの岩をめがけて投げつけ舟は木っ端みじんになった。二人は、驚く漁師たちを尻目にさっさと立ち去ってしまった。
 
二人は、坂瀬川の浦河内にやって来た。そして青年宿の庭先の大石に腰を下ろし、煙草をのみ始めた。青年達がこれを見て、「俺たちが力比べする石に腰掛けるちゃ横着な奴、こん石ばかたげてみろ」二人は謝ったが、なかなか聞き入れてくれない。
 
源兵衛が「しょんなか、わりがいたてかたげてみせろ」と言うと、弟の八兵衛が立ち上がって、大石を軽々と抱え上げ「こりゃ、あぼうよい、かたぐるしこなか。二人で「ひいゃーふうー」(掛け声)していこうだ」と、源兵衛の方へ石をほうると、源兵衛は、「ようし」と言って両手で受け取り、二人でやりとりしながら花立峠まで持って来た。
 
そこで、川の中へ投げ捨てたが、この石は誰も動かす事ができず、後に石垣の根石になったということである。

 

【下方の孝行牛】
 
農山村では各地に、牧の神、牛馬の神(唐塔、牛馬の石像)が祀られていた。ところによっては、今も祭事が残されている。これほどまで信仰されていることは、牛馬が家畜としてだけでなく、農林業の労働力として使役され、時には経済の手助けとして役立つたからであり、家族の一員として世話をしていたので、愛着と親しみがあった。又、牛馬は多産豊作の力もあり、天神様の使者として神聖化され祀られてきた事も事実である。
 
正月には、牛正月と言って餅や団子を与えたり、五月は農閑期で農作業には使役しないので、牛馬の安泰と豊作繁栄を祈願した。
 
下方の牛は他の牛と同じく飼育され使役されていた。家の主人も日々農作業や運搬作業にかりだしていたが、家から畑にひきだし、荷物を鞍に取りつけて、「ハイッ」と声をかけると手綱で引かれるでもなく家路に向かったり、また、山道の狭い所などは、自ら片側に寄り他の牛や人を通らせていたりで、無言の内にも主人の意を解する人間的感覚を持った牛で、人々から驚きの目でみられていた。
 
この牛の死後、今までの行為に感謝し、近くの金山に牛の神として祀られた。この牛の神の祭りには、地元や鬼池など近隣村から、この牛にあやかりたいと参詣者が多く賑やかであったと聞く。金山には、祠が残っている。
 
これに似たもので、馬車挽きの主人が日暮れ、馬車の上で「ダリヤミ」をしすぎ、寝込こんでいたにも拘わらず、馬は一人でに馬車を挽きつづけ家路を急いだが、途中に川があり馬の判断では渡れず難ぎしていたと言う。