【境の松】
 幕府時代、井手村の政策として他村との境界を明らかにするため、境界線上に多くの松などを植え境界としていた。明治維新後、村の併合が進み、境界の松も必要なくなり、伐採されたり風害により倒れたりしたが、当時の松が一本だけ残った。その松を「境の松」と称していた。

 松も樹齢を重ね、枝ぶりもよく風格があり、名所になっていた。しかし、日暮れになると、松の枝から牛の生首が吊下がるという話もあり、人々はこの松の根元に地蔵を祀った。今ではこの松の根もなくなり、昔話として残されている。

 

【禿げの元の松】
 旧五和西中学校から円教寺へ通じる道路の途中に、禿げ(はげ)の松の跡がある。
 ここは旧富岡往還にあたり、往時通行する旅人は必ずここに止まり、内野川の清流を満喫しながら休憩した場所であり名所であった。
 昔は、日没以後ここを通れば、低く垂れた松の枝に美人の生首が吊り下がり、通行人を驚愕させていたという。ゆえに近所の人々は松の根元に地蔵菩薩を祀った。それ以後は、生首も下がらなくなったと言い伝えられている。
 また、地蔵堂と相並んで手野村出身の力士、「一能川」の石碑も建立されている。

 

【蝉の小便】
 丸木場の円教寺から里道に下るところ(現在は農業倉庫)の端に榎の古木があり、その木に暗くなるほど蔦が巻いていたとのこと。
 四郎の一揆勢がそこを通過するとき、逃げ遅れた幾人かの村人が、この榎によじ登り蔦の葉陰に隠れて息を殺していると、下の道を通る一揆の一人が槍の穂先ですっと下から突き上げた。すると隠れていた一人が、あまりの恐ろしさに、おもわず小便を漏らしてしまった。それを、頭の上から頂いた一揆勢の侍が、「あれ?セミかな?」と言って通り過ぎ、木の上の人々は助かったという。
 その大榎が朽ちてしまったのは、今より三百数十年前のことである。

 

【大力太右衛門】
 志田の腹に太右衛門という大力がいて、貧乏なため大黒屋の下男となっていた。ひじ力は二十三人力であったとか、仕事も三人分も五人分もするが、飯も五人分食った。
 ある時、大黒屋の主人が「太右衛門は仕事たぁせぇず仕事すったぁ飯じゃもん、ねぇ太右衛門」と言った。太右衛門はけげんな顔をして主人を見ていたが、さて翌日になり、弁当をしこたま持って畑打ちに出かけ、弁当の藁苞(わらづと)を鍬の柄に結び、自分は横になって眺めていた。日暮れて家に帰ると、主人が「あすかぁ皆打ってしもうたかい」というと、「いんね、旦那さんが、昨日、飯が仕事たぁするって言わしたけん、飯ば鍬ん柄にしばって一日見とったばってん、とうとう日暮れまで飯しゃあなぁんもせんじゃったばな」と言ったので、流石の旦那どんも目ばパチクリさせるほかはなかったという話ば、志田の原の古老が話す。
 太右衛門がその通り阿呆であったのやら、旦那どんの自分勝手さに馬鹿面をしてみせながら一矢酬いてやったのやら、今となっては誰にもわからない。

 

【千すらり、千三つ】
 山浦に年中嘘をついて喜んでいる爺さんが二人おり、大関が千すらり、関脇が千三つと言う仇名であった。その二人が揃って円教寺にやって来て、しかめた顔をして千すらりが言うには「お侍さん、今年や山浦にゃ珍しか松茸が出やした。開いた傘の太さがこんくれえござした」。両手を二尺位の間隔に広げて見せ、それから千三つの方に向いて、その手を四尺五寸に縮めて「ねえ、こんくれえはあったもん」とやる。
 その手品は種があけぇぱなしで、一座が皆面白がって笑うのである。そうした罪のない人々は二人の外にもあったことであろう。

 

【旦那どんの嫁貰い】
 
幕政時代の庄屋どんと言うものは、百姓たちには随分威張っていたものである。明治維新になってもその権力は続いていた。
 
下内野のある庄屋どんが、小峰にきれいな娘がいるのを見染め、嫁にしたいと思い、お供を従えて娘を所望にでかけた。娘の家にあがるとすぐに「ここのお多福娘を嫁にしてやるからありがたく思え」と言った。父親がびっくりして、恐る恐る手をついて、「旦那さま、そりゃー…」と口を開こうとする間も無く、庄屋どんは外へ向かって大声で「わっども…きて、こやつばしばってしまえ」とわめいた。
 父親は手をあげて、庄屋どんをとめて、「よござっす、よござっすどうぞ、しばっとはこらえぇくだせえ」と言い五分もかからないうちに婚約がととのったという。

 

【大庄屋の門前】
 
天草郡内に八十余人の庄屋家があり、その上に十人の大庄屋があった、その内の一人が井手組大庄屋の長島家である。
 
たった全戸数四十戸の小村でも、庄屋は豪勢なものであった。十人の大庄屋というものは士分の前には頭は上がらぬが、百姓にはとても威張っていたものである。井手組大庄屋長島家の門は旧道に面していた。百姓の子守娘が赤ん坊と自分と二人分の「ばばせき」と言う大きな竹の子笠をかぶり、大庄屋の門前を通り過ぎるものなら驚倒するように大声で叱られたということ。
 
そのような目に合った老婆から、次のような話を聞いた。

【叔甥の奇人】
 
長島家の一族に「こみて」と言う一軒があり、そこに「おきのさま」と言う一生嫁がないので書道三昧で八十余歳まで疲れることを知らなかった女奇人である。その甥にあたるある人は年中天の一方を眺めて歩くと言う、見た目は「総身に知恵は回りかね」と言ったような大男であったが、算数の大家で算盤で寺子屋の先生が奥義を伝授したと言われている。後に、手野村長を務めた。

 

【劉伯倫(りゅうはくりん)の亞流】
 
井手には鳥羽瀬の姓が多いが、その本家筋に万次郎と言う奇人がいた。この人は、家道も富裕で四十才頃迄は勤勉な農家あったとのことであるが、四十を過ぎるなり、明けても暮れても酒を飲み、昔は自家用の酒や焼酎を大量に醸じても何処からも文句はない時代であったから、得米をどしどし酒にして、さて三升徳利にそれを充たし、縁側に並べて呑む程に、酔う程に門に立って乞食坊主、琵琶法師、女のぼう、遍路、猿回しなどそうした連中を、小口から引きとめて上戸には湯飲みで、下戸には盃で十二分に振舞ったのである。この人が死んだと聞いた以上の交友たちは、次々に来てねんごろに弔意をのべたとのこと。 

【狐にくれたいわし】
 
大正の頃までは、五和の海岸でもイワシが沢山採れたものである。
 
当時は、手野や城河原の山手の人々も新鮮なイワシを二江、鬼池にと求めたものである。ある時、手野の人が鬼池で沢山買い込んで帰る途中のことである。帰りが遅くなり、山越えの道「水無」を通るころには、日もとっぷり暮れてあたりが暗くなってきた。やがて峠にさしかかり水無峠の観音様の付近にくると、荷なっていたイワシの「メゴ」を「ガリ、ガリ」と音を立てて引っ張るものがいる。
 
心得た手野の人は、「狐どん、狐どん、わしゃあ臆病じゃけんそげん、わしばおどすなぞ!おまえん食うだけイワシはやるけんなあ!」と言いながらイワシを一匹ずつ道に落として行った。わが家に着いたときにはイワシは殆ど無くなっていたそうである。
 
この人の後を少し遅れて道を通った或る人は、道すがら、イワシが落ちているのに気付いたが、この辺りの狐お化けの話を既に承知のこの人は、最初イワシを拾わなかったものの、あまりにも落ちていたイワシの多さに驚き自分の欲も手伝って、背負いの袋にいっぱい拾って我が家に持ち帰った。
 
しかし、狐にだまされては大変、明日になれば木の葉になるかもと思ったこの人は、イワシの袋をそのままにして桶をかぶせ、外に置いたまま家に入って寝てしまった。翌朝起きてみるとイワシは無事昨夜のままであった。後日、イワシをまいた人の話を聞いて大笑いになったことは言うまでもない。
 
また、一の谷にある観音様は、当時この辺りの地主が、狐の化け話のあまりにも有名であることを知り、ここに観音様を安置して、道行く人の安全を祈ったといわれている。