祖父の50回忌を終えて
今日は、祖父の50回忌を家族で執り行った。私が小学校2年生の時に亡くなったが、当時の記憶がいまだに鮮明に残っている。
昔は家で亡くなるというのが普通の死の迎え方であった。家族で代わる代わる看病し、臨終を迎え家族に囲まれ家の畳の上で死ぬことことが当たり前であった。
祖父も同じように家族で看病し、危篤状態の時は親戚一同が枕元で見舞った。深夜になり「潮が満ちかけてきたから今夜は大丈夫ばい」小父が囁く。「峠は越さした」小母さんの声。子供心に安心した。
今考えると根拠のない事だが、医療水準が低い時代、人々が死という人生の終焉を迎えようとするとき、何かにすがりつかなければとういう思い。あるいは家族に少しでも労いの言葉を掛けたいという優しい気持ちがあったのかもしれない。
息を引き取る瞬間は、自分一人が枕元に居た。怖いという気持ちと、自分の看病の仕方が悪くて、祖父が死んでしまったという責任を感じた。
山折哲雄さんと島田裕巳さんという二人の宗教学者の対談 日本人の「死」はどこにいったのか(朝日新書)で、日本人は「死ぬ覚悟」という言葉を、ほとんど日常的に意識してきた。それが今日タブー視されるようになり、「死」が曖昧になったと話されている。
50回忌を迎え、祖父、亡父、亡母ともに暮らした同じ畳の上に正座し、仏前に手を合わせた時、先祖に感謝する気持ちとともに、「死を覚悟」する気持ちを持ち、日々を楽しく豊かに暮らさなければいけないと思った。
庭の松の盆栽は父から譲り受けたもの、その盆栽棚の間から今年も菊の花が顔をだした。花言葉は「私は愛する」だそうだ。利己主義は考えものだが、もっと自分を愛することも大事ではないだろうか。