朝いつも通りに背広に袖を通した。

ポケットに財布、胸ポケットには手帳 背広が少し重たく感じる。

 

ポケットに手を入れ取り出そうとしたが手触りはない。

 

ポケットは空  ??????????

 

去年まで来ていた冬の背広が重たい

もしかして 体力の衰えか

 

知らぬ間に加齢が現実のものになる。あと二年で還暦。まさかと思うが現実なのである。

 

サムエル・ウルマン氏の「青春とは」の詩を思い出して読み返した。

 

青春とは

真の青春とは 

若き肉体のなかに 

あるのではなく

若き 精神のなかにこそある

 

薔薇色の頬

真っ赤な唇

しなやかな肉体

そういうものは

たいした問題ではない

 

問題にすべきは

つよい意志

ゆたかな想像力

もえあがる情熱

そういうものが

あるか ないかだ

 

臆病な精神のなかに

青春はない

大いなる愛のために発揮される

勇気と冒険心のなかにこそ

青春はある

 

臆病な二十歳がいる

既にして 老人

勇気ある六十歳がいる

青春のまっただなか

 

歳を重ねただけで

人は老いない

夢を失ったとき

はじめて老いる

 

青春とは

真の青春とは

若き

肉体のなかに

あるのではなく

 

若き

精神のなかにこそ

ある

 

夢とはなんだと問いかけた。夢も希望もないのか。

それが無ければ 今を生き生きと生き抜くことを「夢」としようと心に決めた。

そうだ今夜は風呂でも入ってリラックスしよう・・・・・・・・・(/_;)

 

 

 

 

祖父の50回忌を終えて

菊の花 

 

 今日は、祖父の50回忌を家族で執り行った。私が小学校2年生の時に亡くなったが、当時の記憶がいまだに鮮明に残っている。

 

 昔は家で亡くなるというのが普通の死の迎え方であった。家族で代わる代わる看病し、臨終を迎え家族に囲まれ家の畳の上で死ぬことことが当たり前であった。

 

 祖父も同じように家族で看病し、危篤状態の時は親戚一同が枕元で見舞った。深夜になり「潮が満ちかけてきたから今夜は大丈夫ばい」小父が囁く。「峠は越さした」小母さんの声。子供心に安心した。

 

 今考えると根拠のない事だが、医療水準が低い時代、人々が死という人生の終焉を迎えようとするとき、何かにすがりつかなければとういう思い。あるいは家族に少しでも労いの言葉を掛けたいという優しい気持ちがあったのかもしれない。

 

 息を引き取る瞬間は、自分一人が枕元に居た。怖いという気持ちと、自分の看病の仕方が悪くて、祖父が死んでしまったという責任を感じた。

 

 山折哲雄さんと島田裕巳さんという二人の宗教学者の対談 日本人の「死」はどこにいったのか(朝日新書)で、日本人は「死ぬ覚悟」という言葉を、ほとんど日常的に意識してきた。それが今日タブー視されるようになり、「死」が曖昧になったと話されている。

 

 50回忌を迎え、祖父、亡父、亡母ともに暮らした同じ畳の上に正座し、仏前に手を合わせた時、先祖に感謝する気持ちとともに、「死を覚悟」する気持ちを持ち、日々を楽しく豊かに暮らさなければいけないと思った。

 

 庭の松の盆栽は父から譲り受けたもの、その盆栽棚の間から今年も菊の花が顔をだした。花言葉は「私は愛する」だそうだ。利己主義は考えものだが、もっと自分を愛することも大事ではないだろうか。

 今日は私たち夫婦の結婚記念日です。約束どうり花束を買ってプレゼントしました。もちろん喜んでくれました。でももっと嬉しかったのは子供たちからのメールによる祝福だったようです。

 

 結婚して33年目になりますが、朝の「おはよう」のあいさつは心がけています。男女共同参画社会の実現が言われて久しいですが、まずは対等の立場でお互いを理解し合う事だと思います。

 

 向かい合うこと、支え合うこと、伝え合うこと その事を通していつまでもお互いがお互いを必要とする存在でいたいと思います。

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