散歩を兼ねてお参り

延慶寺

 

 天草にも、「新四国八十八ヶ所天草霊場巡礼記」がある。もう少し天草のことを知りたい。メタボ気味の体のためにも散歩でもしながらお寺を訪ね歩く、五木寛之氏の「百寺巡礼」ならぬ「天草八十八寺巡礼」を計画した。

 

 しかし霊場に巡礼は弘法大師、空海のゆかりの本所を巡るのではないか?

 

 我が家の菩提寺の名前が見当たらない?しかし菩提寺に参らずして巡礼を行うことはご先祖様に申し訳ない。どうして良いものか、宗教に対する基本的知識のなさに我ながら情けない。

 

 しかし決めた以上は巡礼の旅に出ることにした。早速今日は、散歩を兼ねて我が家の菩提寺「延慶寺」にお参り。

 

 お寺は熊本県天草市浜崎町12-6 裏手にまわり、柴折戸から庭に入ると臥龍梅(樹齢約500年の白梅の老木が、東西11m、南北6mのコケに覆われた庭に横たわる) 花の見ごろは2月下旬から3月上旬。

 司馬遼太郎に『ともかくもこういう梅の木も花も見たことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた。
(街道をゆく 17 島原・天草の諸道 )』と言わしめた梅の木です。

 

 天草霊場は、本町の「東向寺」は別格。一番は本戸馬場「明徳寺」となっている早速計画を立てて一年かけて回ってみたい。

 

 

今年も良いことがありますように

天満宮

 

皆様明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

家から歩いて50歩程の所にある『天満宮』にお詣り。ほとんど地域以外の人の姿は見受けられませんが地域にとっては大事な氏神さまです。

菅原道真を祭神とする神社で地域では「天神さま」(てんじんさま)と呼んでいます。今でも年に二回は地区住民で「しめ縄」を練ります。

小学校のころは学校から帰るとカバンは玄関に投げ「てんじんさまに行ってくる」と言って勉強もせず神前で暗くなるまで遊んでいました。
 
これでは勉学の神様でも手の施しようがなかったとみえ成績はさっぱりでした。親は夕飯の支度が終わるとそれぞれ迎えに来ていましたので今でいう「放課後児童対策」のようなものだった。

しかし神社を管理していた人は実に厳しい人で名前は「関さん」。「関さんがこらした(来る)」の一声で子供達はチリジリに逃げ、石灯籠や木の陰で息を殺して隠れていました。
もう40年ほど前に亡くなられましたが今でも遺影が飾ってあります。
 
お年寄りに訪ねると本当に几帳面な思いやりのある区長さんだったそうです。お蔭で神社の中では雨の日など10人以上が集まって騒いでもケガをした記憶は一度もありませんし、高校生の人も良く後輩の面倒を見てくれました。

今考えれば「天満宮」が地域にあることで貴重な経験をさせてもらったと感謝しています。

①小学校、中学校、高校生と世代を超えて一緒に行動することが出来た(今でも仲が良い)
②酒臭いオジサンが祭りの時は一番偉かった(人は見た目だけでは判断できない事を知る)
③祭りの時は高齢者、若者、女性が一同に会して集まる機会が出来る(地域いコミュニティ)
④農業をされる寡黙な老人が簡単にしめ縄を作る一方私のような一般的な公務員は手伝い(知識より知恵が勝る) 
⑤なんだかんだ言っても地域の心の拠り所がある(これが一番かな)

これからも「てんじんさん」を大切にしていきたい。

今日は105歳で亡くなったお婆ちゃんの葬儀に参列した。

明治、大正、昭和、平成と激動の中で重い荷物を背負い生きてこられた。

明治女の凛とした生き方。いつも笑顔を絶やさず散歩を楽しみ105年をサラリと生き抜いてこられた。

 

とかく私たちは現状に満足せず、常に何かを欲して生きている。そのことによってかえってストレスを溜めていないか。故人のように風のようにサラリと生き多くの人に見送られる人生を模範としたい。

 

帰り道に『天草宝島国際交流会館ポルト』で開催中の「天草今昔」に立ち寄った。昭和30年前後の天草の暮らし、仕事、祭りなどがモノクロ写真で紹介されている。

 

その表情は貧しい中にも生き生きと活力に溢れていた。そこに映し出された人たちの笑顔もおおらかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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