◇「魚貫」を書いたり読んだりできる人は

 牛深出身でない限り読み書きできない

 のではないでしょうか?


◇そこで、「魚貫」の名前の由来を2つ。


<その①~“鬼木”・“鬼来”説>

 ○(角川日本地名大辞典によると)

   元は鬼木・鬼来と書かれていた。

  鬼が出そうな所、鬼の形をした岩が

  ある所、また、漂流民が着いた所とも

  いうが定かでない。

  魚貫の西端に魚貫崎がある。

  天草灘に突き出た最西端の所に遠見

  岳(224メートル)があり、外国船取締

  りの烽火(のろし)台が設置され、遠見

  番人が常駐した。

  異国の漂着者が上陸したとも考えられる。

  天草西海岸には難破船の漂着が多い。

  これらを考え合わせると、鬼木(鬼来)

  であったかもしれない。


<その②~“イオヌキ”説>

 ○(「魚貫の地名考」 池田主雄著)

   大きい魚を持ち運ぶ時、小縄の片方

   の端を口から入れ、鰓(えら)から出して

   両方を結び、手で吊るして運ぶ。 

   その時、縄は「イオヌキ」に入れるという。

   水平に対し斜め、垂直に対し斜めにする

   ことを「イオヌキ」にするという。

   この語と魚貫(おにき)との関係はない

   か?

   ウオヌキ → イオヌキ →オニキ

   と変化したのではないか?


◇現在振興会では、「魚貫の歴史」の見直し

  をしています。

 10数年前に振興会では「魚貫の歴史」につ

 いて冊子を作ってあります。

 これをもとに、新しく分かったことを加え、

 地区内の文化財・祭り等の行事・炭鉱に

 ついて等を載せることができればと思って

 います。

 なかなか、文章化してないものも多々あります

 が、聞き取りをして新たなことを載せられたら

 と思っているところです。 

◇この後、随時、HPに歴史について載せます。

 これを見られた方で“これは違う?”とか“あら

 たなこと?”をご存じの方は振興会までお知ら

 せ下さい。

◇この頃知ったことで・・・

  *浦越神社の存在。新山神社の先に  

   あった。

  *新山炭鉱鉱長の石川鎮太郎さんの功績。

   資料には「温情のある人として知られ、鉱

   員の福利厚生に力を尽くし、道路の改修や

   植林、そして鉱員の子弟のために私立学校

   を開設した」などと書かれています。

   何より、村民がその徳をしのび、建てたりっ

   ぱな記念碑が今も残っています。

   その功績の具体的な内容は?

  *魚貫隧道が出来るまでは、魚貫と浦越は

   峠を越えて行き来していたとのこと。

   魚貫側からはお宮の横の峠道から、浦越

   側はサブロウ迫に通じていたとのこと。

  

   興味深い話しがいろいろありそうですが・・・。

 













2019年12月02日更新