産業経済

1.概 

村の産業としては農業より漁業が主をなし、「まんびき網」はかなり古い時代から伝わったものである。また、カツオ漁も非常に盛んで、生餌の「カツオ籠」が港内にイカダのように浮いていたこともある。これは昭和初期まで続いたが、次第に網を使用する漁法に変化している。その間大漁に恵まれた時期もあるが、五年に一回の周期的なもののようであった。一方、明治に入ると炭鉱が盛んになり、この村の産業の中心となり隆盛を極めた。ところが、昭和に入り炭鉱の一時休止により次第に人口が減少し、炭鉱復活までの間は村民の現金収入は殆どなかった。昭和8年ようやく魚貫炭鉱を再興し商店の数も増え始め、その後の経済は近隣町村とは比較にならないくらいの好況を示し、貯蓄成績においても魚貫郵便局は大蔵大臣表彰を得るという状況にまでなった。

 

2.まんびき漁

この村の先代住民は、生活条件となるべき農耕地が狭小のため、漁業を生計の主とした。特に「まんびき漁」の歴史は相当古く、その昔「コモマキ」と称するまんびきの塩漬けを、富岡代官を経て当時の領主に頻繁に献上したと言われている。当時は、1隻に12~13人乗の帆船で一本釣りを行っていたもので、明治15年まんびき船が暴風にあって難破し、助かった者1名、犠牲者12名を出したため、船主はその葬儀費を負担し、それが原因で経営不振となり遂には倒産したという悲話も伝わっている。このように一本釣り時代は10隻程度出漁していたが、昭和2~3年から現在のような機械船となって網を張る漁法へと進化した。そのため網元は投資と漁獲とのバランスに苦しみ幾度か倒産し、新興網元と代わるなどして経営者の新陳代謝が激しかった。漁期は7月中旬から10月下旬までで、このほかの期間は五島方面のイカ、ブリ釣りチャーターなどで生活していた。

 

3.魚貫炭鉱

 天保年間、薩摩出身の「田島屋久衛氏」が、魚貫町川の内(現在の浦越付近)において炭層を発見し露天掘りを行ったのが、天草における炭鉱事業の始まりといわれている。魚貫炭鉱が所有する三鉱区は当町出身の林興助が発見し、当初はタヌキ掘りをしていたに過ぎなかったが、明治36年に日本練炭株式会社が買収し組織的採掘を開始し、最盛期には日産300トンを出炭していた。しかし、大正11年に海軍省納炭契約が満了したことと、炭鉱界の不況が重なり事業を断念するに至った。その後、昭和8年に坂田秀一・中井彦次郎・中島貫一の諸氏によって事業を再開した経緯がある。

 

4.権現山炭鉱

 本鉱区発見の詳細は定かでないが、明治25年ごろ「大矢氏」によって採掘されたという形跡があるので、これから推察して明治20年ごろの発見と思われる。幾多の変遷を経て大正6年に経営組織を南海鉱業株式会社権現山炭鉱と改めた。第一次世界大戦頃は年産2000トン余り出炭したが、次第に減炭し休業に追い込まれていった。その後、昭和7年に「黒坂雄吉」が再興を図り、順調に発展しながら昭和9年3月に権現山炭鉱株式会社と組織を改め閉山を迎えることとなった。

 

5.土木工事

本村の村道工事は昭和5年になされているが、工事費などの詳細は定かでない。当時の村長は「坂田秀一」である。工事完成により本渡牛深方面に至る道路が開通し、文化・教育・産業などあらゆる面で町の発展に多大な成果をもたらした。また、宝永元年に築造された70.5mの波止場が、大正14年9月17日大暴風により東シナ海の激浪をまともに受け崩壊したため、翌15年3月に県の補助により7,800円で復旧工事を完成した。また、昭和28年11月には熊本第一水道工事株式会社により、1,500万円で魚貫村上水道工事が始まり、翌29年7月に竣工した。更には、昭和30年12月には牛深町元の送水設備も完成し、水飢饉牛深の悩みを解消するに至り市民に多大な恩恵を与えた。