政治社会

1.政 

旧魚貫村は、寛永18年大庄屋久玉組に属し、享保年間に初代小庄屋として「佐々木権平」が命ぜられ、その後は子孫によって明治初年に至るまで続いた。これらについては、本郷地区在住で庄屋の親戚に当たる「佐々木つぎ」の家に伝わる位牌や墓碑を調査した結果、歴代庄屋は次のとおりであることが判明した。

初  代  佐々木 権 平    四 代  佐々木 覚右衛門

二  代  佐々木 覚右衛門   五 代  佐々木 覚 蔵

三  代  佐々木 宝 平    六 代  佐々木 昇 一

この六代目佐々木昇一のときに庄屋制度は廃止され、明治3年七代目佐々木直が初代戸長に任命された。明治22年町村制が施行されると、そのまま佐々木直が初代村長に就任するが、その後の歴代村長は次のとおりである。

初 代  佐々木  直    名誉村長 井出一二代理

二 代  大 西 紀 綱   明治25年4月就任

三 代  山 野 素入郎   明治29年1月18日就任

四 代  永 野 国 子   明治30年11月17日就任

五 代  高 尾 万太郎   明治35年1月14日就任

六 代  森 下 繁 作   明治36年9月24日就任

七 代  寺 川 善太郎   明治37年10月24日就任

八 代  森 下 範 一   大正2年1月24日就任

九 代  荒 木 和三郎   大正4年10月5日就任

十 代  坂 田 秀 一   昭和2年11月就任

十一代  荒 木 和三郎   昭和5年8月就任

十二代  寺 川 正 雄   昭和6年1月就任

十三代  山 野 継 治   昭和7年1月就任

十四代  本 山 朝 彦   昭和15年5月就任

十五代  本 山 庄三郎   昭和21年4月就任

十六代  北 野 寿 之   昭和26年4月就任

昭和29年6月、町村合併促進法の施行により牛深市に合併し今日に至っている。この村においていかなる政治がなされたか文献もなく定かではないが、初代庄屋佐々木権平は、享保年間に福津新田27町歩の干拓事業を遂行して、村民の生活向上に多大な貢献をした。これにより毎年200石の増収が可能となった。

2.村の功労者

大正年間に、原野の過半数を占めている村公有地への植林を建議し、時の村長に働きかけた村議:八尋松之助氏と、この建議を取り入れ植樹事業を実施した村長:荒木和三郎を挙げることができる。荒木村長は、今でも「松の木村長」と愛称を残している。このとき植樹された松の木は、昭和23年6月魚貫中学校校舎新築時の平屋6教室と、昭和25年5月増築時の2階3教室、更には昭和28年魚貫村役場改築時の建築資材として活用されており、この功績は村民の感謝の的となっている。

3.消防団

 この村に消防組が出来たのは明治30年頃と言われている。当時は木造ポンプを2台有する二分団の組織に過ぎず、規律訓練などもなく回れ右の号令がわからず、「あっち向け」・「こっち向け」と言っていたというのは有名な話である。水に恵まれずそのうえ住家が密集していたため火災が多く、文化13年-90戸全焼、翌14年12月-10戸全焼、明治40年11月及び大正9年11月には白昼火災で各50戸余りを全焼した。昭和15年には2回・昭和16年12月-19戸・昭和17年12月-126戸と続発し村の三分の一を消失、更には昭和22年-16戸全焼するという立て続けの大火であった。この火災の度ごとに消防団の活躍があったことは言うまでもない。