石神大明神

牛深市魚貫町浦越にある

 浦越から魚貫への旧道の巡坂へ登る入り口にある。石の祠で、三体の石像があり2体は天蓋のある祠で石神大明神とあり、建立は明治14年吉日とある。その1体は腐食しており、他の1体は人物を型どった地蔵尊である。

 この石神様は、昔から疣の神として信仰されており、そこに供えてある石で疣をこすると、必ず疣がとれて無くなるといわれる。疣がとれた者は、そのお礼に海や川から形のよい美しい石を探してきて、お供えする。その後は、疣は出ないとされ、近郷から現在も祈願する人が多い。

 

 あねどん峠の観音様と無縁仏

牛深市魚貫町巡坂にある

 魚貫町の本郷と浦越の旧道の巡坂越えの峠にある。道路が開通しない時は、浦越から魚貫本郷に行く時には、巡坂という急坂の山道を越えて行った。

あたりは欝蒼とした樹木が道を覆って、昼でも暗く無気味であった。地域の人は巡坂越えと言っていた。また、その峠を「あねどん峠」と呼んでいた。そこには祠があり、菩薩観世音が祀ってある。この巡坂越えは、亡霊が出るとか、狐狸がたぶらかすとか、往来の人はそのたびに、いつも内心びくびくして恐れたという。往来の人を安らぐためにこの菩薩観世音が建立され、往来の人はいつも詣っていたといわれる。

 峠の南側に「守りが泊まり」という共同墓地がある。魚貫・浦越地区には、明治以前から炭坑が栄え、良質の無煙炭を出していたが、採炭夫も全国各地から集まっていた。採炭の方法も原始的な手堀で、多くの事故が繰り返され、死人も多かった。事故死の外、病死する抗夫もあり身寄りのないそれらの死者は、この共同墓地に葬られたという。「死ねば酒樽、守りが泊まりよ」という言葉が、いつとはなしに抗夫達の間で言い囃されていた。身寄りのない抗夫達の亡骸は、棺桶を造ることもなく、空になった酒樽に詰められて、この共同墓地に運ばれていたという。現在では、この巡坂の道は廃道となって通る人もなく、抗夫達の眠る無縁仏のあたりは、叢となって荒れ果てている。

  

 新山炭坑・新山神社、石川鎮太郎記念碑 

明治27年日本練炭()が山の鳥と新山炭鉱で五尺層を採掘開始し、城初太郎が抗夫263人を使用した。石川新太郎はこの時の鉱長であった。新山炭鉱は大正10年に閉山し、日本練炭()は大正13年まで魚貫炭鉱を継続したが、その後の不況で一時操業停止となった。

現在、石川氏のことはほとんど忘れられているが、当時は鉱長としても温情があり、鉱員の福利厚生に力を尽くし、道路の改修林等についても積極的に援助し、教育の面でも援助を惜しまず私立学校の設立や、魚貫村初の映画を上映するなど文化活動にも努力した。村民はその得を偲び山の鳥境内の丈余の頌徳碑を建立した。石川氏は大正31247歳で亡くなった。

新山神社は石川鎮太郎記念碑よりさらに上段の丘にあり、明治441月創建で、鳥居、燈籠、水盤、木造建の祭殿があったようだ。祭神は「新山神社」とあるが「石川鎮太郎記念碑」の中には、(平生は菅公を参拝す。毎年首め大宰府に於いて賽す。)云々とあり、この祭神の鳥居側には牛石が祭置してあったことから、祭神は「天満宮」である事が推測される。

炭鉱廃止とともに人家がなく無人となり、人も行かなくなって、草が茂り朽ちていった。

(神社の様子は、別紙に記載してあるとおりである。)