◇≪“魚貫を知ろう!”クイズ~№1~≫(○か×で)

    *答えは下にあります。



  1) 祗園(ぎおん)山には昔、城があった?



  2) 祗園山は昔は離れ島だった?


  

  3) 伊能忠敬は魚貫には来たことがない?



  4) 魚貫地区で初めて炭層が発見されたのは南天である?



  5) 1839年(天保10)牛深地方の疱瘡(ほうそう)が

    大流行し片島にも隔離された?


  6) “寺郷(てらご)”という地名は、お寺があったことから

    来ている?


  7) 魚貫地区では1816年(文化13)、1817年(文化14)

    1942年(昭和17)の三度大火事があった?


  8) 1964年(昭和39)浦越にあった市民病院に天草で

    初めて整形外科部ができた?


  9) “ヤイラギ神社”は新山炭鉱の鉱長だった石川鎮太郎

    さんが立てたものである?


  10) “きたんき”とは“上ん町”のことである?



・・・答え・・・

  1)  ○ →昔は祗園山を城山(じょうやま)、

          山の麓を城下(じょうした)と呼んでいたこと

          から城があったと考えられている。

  

  2)  ○ →明治の初めには干潮の時は歩いて渡れたが

          満潮の時は離れ島になっていた。

  3)  × →1810年伊能忠敬は天草を測量した時、魚

          貫に二泊したとの記録あり。二泊とも庄屋宅

          に泊まった。その後、二浦へ。

  

  4)  × →地区での炭層は1830年浦越で初めて発見

          された。薩摩の田島屋久兵衛が発見。

   

  5)  × →桑島に隔離された。その他牛深では、築の島・

          馬刀島に隔離された。

          以前、桑島の海岸で人骨が出てきたとの話し

          があった。

  

  6)  × →お寺ではなく寺子屋があったからとのこと。

          1873年(明6)本木数馬が寺子屋を開く。

  

  7)  ○ →1942年には126戸以上が焼失したとのこと。

          1816年に90戸、1817年60戸焼失との

          記録あり。  

  

  8)  ○ →炭鉱があったからできたか。

  

  9)  × →“ヤイラギ神社”ではなく“新山神社”を石川さん

          は立てた。

  

  10)  × →“きたんき”はお宮の下一帯を指すか。

          “上ん町”の向郷の高台には魚貫地区で

          最初に民家が建てられたとのこと。

           

     

  


2019年11月29日更新