古くから「城下の井戸」として、大事にされてきた井戸をご存知でしょうか?

 

人にとって飲み水は、とても大切です。まず飲み水が確保できるところに集落をつくっていました。

 

昔々の古い話になりますが、本渡北を南北に走る主要道路は、現在井戸があるすぐ横の道路と小松原の道路しかありませんでした。

現在バスが走っている苓北線はありませんでした。

したがって、井戸の横の道路が富岡城に行くための主要道で、道路沿いに、「馬場の井戸」、「箱の水の井戸」といった水汲み場があったようです。

 

古城下の井戸 

城下、馬場、箱の水の家々にはいくつかの井戸がありましたが、当時の井戸はそれほど深くは掘れず、城山から離れるとClイオンが高く、それほど良い水ではなかったそうです。

 

「城下」という地名ができたのは大正4年のことで、それまでは本戸村下馬場といっていそうです。

お隣の大門口という地名ができたのは、大正15年で、それまでは、本戸村下小松原と呼んでいたようです。

   (建物は平成6年10月2日解体)

 

集落が大きくなってくると水の確保が必要になってきます。この場所には、その昔から井戸があったのではないかと思われますが、城下区民一致して集落用の井戸掘削が計画されました。

 

城下の集落で、敷地36坪(119㎡)を購入し、区民の労力により、大正14年8月14日に起工し、9月30日竣工したと記録されています。

井戸の構造:方3間(5.4m)、深さ2丈3尺(7m)

工事費総額:1千3百余円(内438円は県費補助、残り区民の拠出および一般篤志家の寄付)

水質は、極めて清冽・純潔・水質飲料に適す。

世に「城下の水」と称され需要者と区民共同の効果を永久に後世に伝えるべく記念碑を設置すると横にある記念碑に記されています。

 

碑によるとだいぶ読みにくくなっていますが、

発起人に、田原幸吉さん、城下常市さん、松下伊吉さんなどの名前があり、世話人として石田卯吉郎さんや池田半次郎さんなどの名前があります。

 

井戸築石工は 本戸村宮崎三平さん

記念碑石工は 下浦村田崎次八さん だったようです。

 

大正9年に舟之尾に繭市場ができており、そのころの影響もあるのか、城下井戸掘削寄付者名簿をを見ると個人寄付で、13円、12円、11円と当時としては高額の寄付をしておられます。

春と秋の繭市では、天草の外からたくさんの仲買人がこられ賑わうと同時に、かいこ・繭を飼っていた農家は、まとまった現金収入が入ったそうです。

 

 

現城下の井戸 

                            現在の「城下の井戸」

 

 

2010年07月15日更新