1-6 「口脇 諸作」のこと
彼は、明治元年5月27日の生まれであり、大正生まれの我々にとっては、5月27日は、海軍記念日であり学校の遠足の日である。 「くちわきもろさく」 と書いても中々ピンと来ない。「トメ爺」と言えば愛着と恐怖の混同した懐かしい顔だ。
「軍艦の日」の生まれに拘わらず彼の舟は3メートル足らずの深海で一番小さな舟であった。皮肉と言うべきか?
彼は、青年時代から有名であったらしく、明治20年頃の手鞠(テマリ)唄にこんな唄が残されている。
高かった たつよみどん(辰右エ門)
低かった 仙馬どん
膏薬張りの 金太どん
目突っ張りの 順太どん
鼻無しの トメ爺
こんな唄を口ずさみながら手鞠を弄んだ。新聞も雑誌も無かった時代に子供達は人の名を、良しも悪しきも唄い綴る事に優れていた。かれは、焼酎をよく飲んでべろべろになり、「山芋を掘る」(人に文句を言う)など今考えるとなんでもない事だが
飲もい 飲もい 三五郎爺
それもよかろう きたきた爺
おりもかてろん 新太郎爺
などと言った時代もあった。爺とは、深海では敬語の意味もあり、名前の下に爺を付けて呼ぶ人、子供の名前の下に爺を付けて呼ぶ人もいた。
「よおい、義太が爺」
こんな呼び方は、爺さんかと思われそうだがまだ30歳前の若者である。トメ爺は、恐らく20歳位でトメ爺と呼ばれていたのであろう。
かれには老人になってからの友達がいた。その人の名は、中村安次郎氏である。教員をやめて恩給で生活をする村のインテリでもあり、この人は至って小食であるが、コッパだけは人の倍も「枝ん先のぢ折るるごてつっかけて」食べたものである。
中村さんは日頃からトメ爺に「君」(きみ)と言い、自分のことを「僕」と言った。トメ爺はそのことを、「偉い人には『僕』、おっどんが事を『君』と言うのだなあと解釈した。
ある日、トメ爺は、浦本商店の前の橋の上で中村さんとばったり出会った。標準語を自分も使える事を自慢したかった彼は一声高く、例の鼻声で、
「フォンならば、僕は先に行っとけのい。君は後からくっで。」
中村さんはなんの話やらキョトンとしていた。
この対話を聞いた子供たちは喜んで、日頃鼻の無い顔で脅されている鬱憤をトメ爺に向けた。友のことを「僕」と言い、自分の事を「君」と言った彼の言葉がしばらく流行語となった。
泣く子の頭を引き抜き、樽詰めにし、輪切りにして食べる。 「よく泣く子程おいしい」とは、彼の毎度の口上、そして、自分の顔を鬼の形相にする技術、無い鼻を口まで「がねこっこ」(植物)で突っ張り、ぴくぴくとさせる彼の仕草は、動物園に入れても何ら遜色の無い彼であった。
月の夜、石段をトボトボとわが家に帰る晩年のトメ爺の真実の姿を見た。重そうにしているがタビ(魚をすくう網)の中には小魚が2、3びき、今夜の今から夕飯であろうか独り語りをぶつぶつと呟きながら自分で自分の事を、
「トメ爺の心の味気無さ ドオッコイーショ」
彼独特のお経とも唄ともつかぬ節回しで、最後は細く泣き出しそうであった。
「トメ爺、こん子は言うこっば聞かんで噛うでくれのい」
沖に出ようとする彼に声をかけると、いざ出番と言わんばかりに苦もなく舟を接けて、例の顔を演じていい子にしてしまった。大正・昭和初期に生まれた子供達にはよい子になる特効薬でもあった。
現在の社会は、大人も子供も言いたい放題の事、したい放題の事をしている。願わくばトメ爺よ、もういっぺん世に出て
「悪い奴の頭を漬物にして焼酎のアテにして食べてくれ」
と言ったとしたら彼は何と答えるであろうか 。
おちか団子バイバイ
おちか団子バイとすりゃ
だがとがションバイ
おりがとがションバイ
そら一個貸せた
道端のあちこちで聞かれた童女の手鞠唄は、時代の雲と共に流れ去ってしまった。