1-7 崎口弥平
海で培われた彼の声は特に大きく、地曳き網を引く彼の上手(こうで)下手(しもで)の下知は湾内に響き渡ったものである。
明治15年の春頃のこと、庭でハヤコをなう崎口弥平に物を聞く者がいた
「チョヂ場(お手洗い)は何処け」
弥平は手を止めて聞くが、早口で分かりにくい、彼はこう思った。
(ハハン、今朝入港した串木野の鰹船の奴が千々岩灘を聞いているな)
そう判断した彼はゆっくりと、
「ハイ、千々岩なあ、お手ん崎ば出らしたろ、西の方が千々岩でござすたなあ」
彼の指す手が、お手ん崎の松の上から向えの弓崎の空に弧を描いたのと船員がたたらを踏みながら
「違いもんど チョヂ場でごわんど」
と言い終わったと同時に用を足してしまったと。その時のことを彼はこう言った。
「べならばべえちゅう言えばよかっちゃ、べたんごは目ん前の稲巻 (いなまき)の下がっとっとに臭さも臭さワリャー」
船員は、「お手洗い場」(チョヂ場)を尋ね、爺さんは「千々岩」(チヂワ)を答えたのである。
弥平爺の家には時折、揚心流の武術家として現在も受け継がれている甑島(鹿児島県薩摩郡の旧里村)の和田陣太夫が訪れた。先祖から何らかの関係があった様に聞くが確かなことは不明である。が、気が向けば当時の青年達に銃術など教えた里の陣太夫どんの名はよく耳にしたものである。