どんくタイトル

1-8 磯女の噺

 明治末期のある年の初夏の昼下がりである。権次と義造は、潮時のよいのが幸いしてか、下平の「泣きごらん浜」から「出月」(でづき)の浜までの間に、さげきらん位(持てない位)のタコを取った。
義造「もうさげきらんばえ、戻ろうかい」
と、気の合った二人である。
権次「ほんならば戻ろうわい」

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と、じいっと山際の方を見ていた権次が、急に指さしながら、
権次「いそ・・・・ 磯・・・・ 。 」
と、口走りながら座り込んだ。
 顔は真っ青で恐ろしさに震えている。肝っ玉の太いのか義造は権次の指さす方をじっと見ていた。
 義造は、親父から聞いた「磯女」とはこれのことかと思った。
「山姥」(やまんば)はテンコブ(女郎蜘蛛)の化身で、口は耳まで裂け、人を捉らえて頭から丸かじりする。
「磯女」は、千年を過ぎた浜辺の「アワメ」(船虫)の化身で、この世のものとは思えぬ美しさで人を引き付けてその血を吸い尽くすと言う。
義造が、
 「親父、磯女はあやつり人形よりゃきれかとかん」
と聞いたとき親父は、
 「うんにゃ、そがんもんじゃなか。まあだ美しかと」
と、親父は自分がまるで出会った事があるような話をした。義造は、そのときのことを思い出していた。
義造(これが始めて見る磯女か、足もちゃんとついている。何ときれいな化け物であろうか。早く逃げなければ。)
と、今まで収穫したタコも、道具もかなぐり捨てて座り込んでいる権次に肩を貸してようやく家に帰った。
 家にたどり着いた権次は、ショックで寝込んでしまった。
義造は、黒崎でシメ木(木を割ったたきもの)を出して売らんと小使い銭がないと思っているが、「出月」を通るのはいやだ。2日程しても、権次がどうしても起き上がる気配がないので、深海へ医者どんに行くことになった。
 舟で烏帽子岩を過ぎるころ、権次曰く、
権次「義、あがん良か女ごなれば、血ば吸い取られてん良かったかもしれんね」
義造「あっでさい、おるもほがん思わんでんなかったばえ」

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こんな会話をしながら義造は櫓を漕いでいる。
 舟を多々良ん迫の「八百鍛冶」どんの下に着けて病院へ行った。
 院長の正保さんは、(父を郡会議員、母を崎津の遠見番所の役人の娘とし、天草の公家さんの様な人)象牙の聴診器を権次の胸に当てながら、例のかすれた声で、
院長「どがんしたっかの」
義造「権が、磯女に会うてさな、そりから具合の悪かとですもん」
院長「あよう、今時もほがんとんおっとかのい」
権次「ハーイ、おりやすとばな」
権次は、時々しか使うことのない正月言葉(あらたまった言葉)で返事した。
 ところがである。
  2・3日前、「出月」で出会った「磯女」がヌーツと現れ、にこやかな顔で目の前にいるではないか。権次はびっくりしたが、今度は病院にいるという安心感があり、驚いたけれども逃げ出すまでには至らなかった。
 実は、この「磯女」が、この間「鬼の池の庄屋どん」の娘で、病院に輿入れされた、若オカッサマ(若奥様)だと判るまでさして時間はかからなかった。
 二人は、「磯女」の概念から解かれ、いっぺんに体も良くなり薬を貰う事もなかった。帰りしなにもう一度振り返った二人は、
 「何ときれいな人であろうか」
と思った。
 そこに立っていて「磯女」に間違われたのは、院長の奥さんの「マサヨ」さんであった。
 マサヨさんの美貌と気品は昭和の頃になっても色褪せる事はなかった。
 当時、めったに通る事もない「出月辺た」(でずきべた)をマサヨさんが通られたのは、上平からの帰り道で当時「凶時」の「新田」と「上平市」(かみひら市)の神社の下に二町歩位の小作田がありその小作人の家に用事でもあったのだろうと言うことであり実際にあった話である。


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深海小4年生の皆さんが、紙芝居に仕立ててくれました。そして、NHKの番組で放映されました。(h.16.10.4)

 

番外山ノ神とオコゼ

 磯辺の岩の上に立って、四方の山々に異変はないかと安泰を願ってじいっと見つめる 荒々しい姿の男に一目惚れした竜宮の乙姫は、タイやヒラメの舞の手を制止し、傍らの美女とは程遠い顔のオコゼに、

 乙 姫 「あの方はなんと言う方か聞いてこい」

     (この間の原稿が見当たらない)

 オコゼ 「そうですか」

 今年などは、冬帷子(かたびら)に夏ののこ(布子)虫の発生も多かったであろう。ご苦労なことです。
註=帷子は薄い着物、布子=綿入りの着物、すなわち、冬に帷子を着、夏に布子を着る。
このことから 異常気象で害虫が多く発生して苦労しただろうと言っている。

 オコゼ 「今年も11月の初めての丑の日に村人たちの焚き火に送られて山に帰るとのことで御座います」

翌日オコゼは乙姫様に

 オコゼ 「今日も、昨日の岩の上に立っていられます」

と報告した。 次の日もまた次の日も「オコゼ」は乙姫様に

 オコゼ 「山の神様のお見えでございます」

と、報告するうちに他の者たちはいつの間にか「オコゼ」が乙姫様のところへ来るのを見ると「山ノ神様」が来たな?と思うようになり、何時しか「オコゼ」を見ると「山ノ神」と言うようになった。

このことから天草地方では「オコゼ」のことを「山ノ神」と呼ぶようになった。

 註=オコゼと山の神様のやり取りの部分の原稿が見つからないのは残念である。また、乙姫様が美女とは程遠い「オコゼ」を選んだところに人間くさいものを感じる。
 願わくば誰か不明な部分を創作してくれないかな?