どんくタイトル

1-9 「藤川校長先生」のこと
 昭和9年3月8日、深海尋常高等小学校で、校長「藤川誠基」は、全校生徒400数名の前で、 「熊本県から初めて陸軍大将に『林仙之』と言う方がなられました。皆さんも、うんと勉強して偉い人になるようにしなさい」との説話をされた。
 藤川校長は勉強家であり、教員からの人望も厚い人であった。
 朝礼の後、我々は教室に入り先生の登壇を待った。
 先生が教壇に立ち、「起立」「礼」が終わると国語の時間であったが、先生は、 「明後日は、陸軍記念日で遠足だし、理科が遅れているから理科の時間にして、2時間続けてやろう」と、おっしゃった。
 私たち5年生の和久田学級では、先生のことを「仁丹の看板」とあだなする者もいた。それは、当時売り出されていた「仁丹の気付け薬」の袋に描かれていた「ヒゲ」のある人物に似ていたからである。
 彼は、今月末で朝鮮の「慶尚南道」に赴任することになっていた。
 2時間目の授業が始まって10分位たった頃であろうか、西向きに並んだ教室の南側の生徒が、ガラス窓に降ってくる「火の粉」を見つけて恐ろしくなってあわてだした。
 先生は、
 「静かに、静かに」
と制したが、2~3分の後、運動場の正門前の消防倉庫に走る人々の
 「火事だ、火事だ」
との声に勉強どころではなかった。
 校庭には、校長始め、大山、星子先生、宮崎先生も出ておられた。
 「小学生は、火事現場に近づいてはならない」
と言うことで、すぐ家に帰された記憶がある。