どんくタイトル

1-4 深海のえらかふと

 時化(しけ:嵐)に遭い、甑島(こしきじま)の里村に避難したことがあります。家々は台風のために軒を低くし石垣を高くし、大きな士族屋敷といえどもそんなに大きくなく、こじんまりとしています。
 ここで、深海の「崎口家」と交流のあったと言う「塩田流柔術の達人、塩田陣太夫どん」の家など見ながら墓場に通りかかりました。松林の中に元禄15年、あるいは、それ以前のも立ち並んでいました。村に帰って元禄以前の墓は無いかと探しまくりました。天明年間のはありましたが、それ以前のものは探せませんでした。一番立派だと思ったのは、下平の「滝原家」の墓でした。が今ではその墓も引っ越しています。   
 その後、深海役場に須崎季隆君が役場の小使いをしているとき夜遊びに行った。
季隆君いわく、
 「みてみや こんわれは 深海の ふとばえ」
 それは、当時の雄弁会講談社(社長野田清治)から発行されている月刊雑誌「キング」の口絵に「軍事参議官尾高亀造閣下」とあり、一頁を費やした大きな写真でした。季隆君はその人の戸籍を東京の方へ移す事務をしていたのでした。それがきっかけになって深海にいた偉い人を探し始めました。
 まず、「尾高亀造閣下」の事を尋ね歩いたところ知る人は少なく戸籍だけのものかと思っていると私の叔父が、

 「ああ ほりゃ じこかりそうな こどんが ふたり 下平の農協倉庫の上に いっときおって おるも あそだこつも あるわい。」
注(ああ それは、利口そうな 子供が 二人 下平の農協倉庫の上に しばらく住んでいた。じぶんも 二人と遊んだ事も あります。)と教えてくれました。それからまだ偉い人はおらんもんだろうかと思い尋ね探した。
 軍人関係では、浅海の人で、日露戦役の「陸軍軍医中佐の桐野さん」彼はドイツの大学を出、アメリカの大学をも出て教壇に立った。奥さんは薩摩の殿様の島津家の出で皇室関係とも、いとこ関係にあるとも聞き、村人はお方様と呼んだ。
 深海では、嫁さんの呼び方を次のように呼んだ。
 一番偉い人のお嫁さんを「お方様」即ち桐野家のお嫁さん。
 鶴田病院と橋口の旧庄屋のお嫁さんは「オカッツアマ」。私の母は(眉毛を剃ったり、お歯黒をつけたりしていた)「おっかん」であった。
 「奥さん」と呼ぶのは、よそから来た、偉い人のお嫁さんを言い、当時は、郵便局の局長さん、校長先生、駐在所、先生などのお嫁さんを「奥さん」と言った。ついでに、「村崎隼人」氏は、私の知る昔の人で一番学歴の有る人で「隼人」「宗人」の兄弟は高等小学校が一町田村に設置された折りの生徒で同級生には一町田の「宮本校長(久玉の校長を最後に簿記の先生)」などの人格者が多い。
 奥さんの次は「かか」である。
 故人の「田中静夫先生」は天草郡教育会の指示もあり言葉の矯正には大分苦労された様であるが、あまり成果はなく時代とテレビが矯正した様である。こんな話がある。
 学校で先生から
 「家に帰ったら、お母さんただいま帰りました。と必ず言いなさい」
と言われた子供が、家に着くと直ちに
 「お母さん、ただいま帰りました」
とつげると、媽(かか)いわく、
「アヨ、おいげん ひろは なんチュッじゃい 言うたばえ まあ いっぺん 言うん  みや」
子供のひろは、バツの悪さに
 「かか、こっぱ 食う ちゅう 言うたっ じゃっかん」
と逃げた。母は、
 「ほがんじゃ なかごて あった ばってん」
親子は喧嘩になりました。
 それからひろは二度と「お母さん」とは言わず一生「かか」で通しました。
 標準語(よい言葉)を受け入れる態勢は整っていませんでした。
 深海にはその後はあまり偉い人は出ませんでした。
 私は今でも母を深海の人情のよさと景色のよさを満喫した一番の人物と思い込んでいます。母はどうかした弾みに、「しばんとりのおど」まで登ろうわい。と急にこんなことを言い出すことがありました。年に2・3回は登ったでしょう。
 陽炎(かげろう)燃ゆる春の日には眺望も良く「あれが霧島、あれが雲仙」と言う母の説明を聞きながら九州本線を走る汽車の煙りさえ望めた。
 最後に母は西の方に向かって「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と拝みながら戦場に送った子供4人の無事を祈り、寝床の中でも夜中の便所でも必ず念仏を唱えていた。
 愚痴を言った事のない母が、思い詰めて六郎次に登り頂上で西の方に向かってひたむきに祈った姿を思うとき、50年たった今も昨日の事のように偲ばれ涙があふれます。
 自分が産んだ子供が五人全部一度に戦場に狩り出される様な日が、母と言う偉大なものに二度とのしかかってくる日のないように、そしてよく耐え忍んだ当時の母に感謝するのみです。
 六郎次山も今は開拓が進み、頂上まで自動車が走り便利になったが、足半(あしなか)を履き喘ぎながら登った頃の六郎次はまた美しかった様でした。