どんくタイトル

1-3 深海の歴史を誌するに当たって 
 私は、骨董を集め、壷をせっせと磨き、傍ら町内会の長として仕事を快くさせてもらっています。私が、深海の歴史をあれこれと考え始めてから何年になりましょうか。  歴史に興味をもち始めたのは、15・6才の頃でした。
 夏になれば例年のように、「水肥え」(人糞)を「柳田」の峠にいなう(担ぐ)のです。自分の家から、現在の滝下さんの自動車工場の横までリヤカーで運び、それから肩にかついで坂を上がるのです。「いも」(さつまいも)の肥を運ぶのです。
 この時期は、真夏のことでもあり休憩をしていると、必ずと言っていいほど、鶴田力三郎さんに会うのです。その力三郎さんは、私の4分の1にも満たない量を自分の家から肩にかついで運んでくるのです。
 50年前、このおじいさんは80何才だったでしょうか。枯れ木のように細いからだ、威厳のある眼光、村で数少ない「さん」の付く人でした。
 村には、家柄によって「さん」のつく家、女には「ご」のつく家があります。深海にはそれぞれ一軒ずつありました。
私は先に、庄屋時代に庄屋の「番た」(使い走りをする人)だったと言う人から富岡までの道を「福連木山」を越して行った事など教えてもらいました。
 ある日、彼が嫁さんの話をしてくれた。
 春まだ浅き頃、(春の日には夜明け立ちすると月の光りだけである)阿久根の前の海に「藻」を取りに行く。(藻を肥やしにする)夜明けの3時半頃出港して(八尋位の長さに八丁櫓の船)帰ってくるのが6時か7時頃、藻を干して家に帰るのが8時から8時半頃、それから「かかあ」にいき。それから、白木河内まで六郎次越えして夜這いに行って、それから又3時半頃の船に間に合うように帰る日が何日か続いた事や、西南戦争には、夫方で米をかついで人吉から宮崎まで越えた話等してくれました。
 村の歴史に興味をもち始めたのはこの頃です。
 私が17才の冬だったと思います。