どんくタイトル

1-2 黎明の群像・小見山七十五郎の生涯
 明治23年国会が開設されると、天草から大浦村の小崎義昭が国政の座に上がった。小崎氏は栖本組の大庄屋である小崎武一郎重謙の嫡子として生まれ、幼名を津五郎(清五郎?)また清と言った。
 初め上村の値賀一、教良木村の高尾山堂を招いて漢学を修め、菊池の城野静軒を招いて書を学ぶ。文久3年18歳にして父の後を継いで大庄屋となり、行政事務に当たり維新に及ぶ。
 明治5年八代県出仕を命ぜられ、一年余りの後帰郷して塾を開き子弟の教育に当たる。
 明治11年から24年まで県会議員にも選ばれている。県会議員当時、常置委員として貢献する所多く三角西港は彼の力に負う所が大きかった。明治23年から衆議院に当選すること6回に及ぶ。尊皇の志厚く篠州と言い詩文をよくする。
 小見山七十五郎は、帝国議会から、戦後民主議会までの間、昭和12年から議席を重ね、戦後第一回の国会議員として議政壇上に登った。
 小見山氏の略歴は次のようである。 
 明治18年(1885)早浦村(牛深市)の生まれ。
 中学済々黌から長崎高等商業学校を卒業、島原市の数寄屋銀行支店を本渡に誘致し、後株式会社「苓州銀行」に発展せしめ、その経営に当たった。
 明治44年、25才にして郡会議員となり、天草の地に彼の政治家として業績を大きく残すこととなる。河浦町の河川工事を始めとして、鬼池漁港を改修して天草の北の玄関口を作り、各村々の漁港は彼の政治力に負うものである。
 特に教育に力を入れ、天草郡下の小学校が充分な施設の恩恵に浴したのは、彼の力である。
 小見山七十五郎の県会議員当時の熊本県議会は、天草のためにあるようなもので、彼独特の弁舌と円満な人柄にすっかり呑まれたようなもので、煙りにまかれた某議長は後で小見山さんの意のままであることに気付いて曰く、
「小見山さん、そぎゃん天草のためになる事ばかりならば、この次から県議会は本渡でやりまっしゅい」
と、某議長の精一杯の議会答弁であったという。
 昭和12年4月30日に行われた総選挙で国会議員に選ばれる。当時、熊本県の国会議員は次のようなものである。 〔一区〕安達 謙造 (国同盟)
松野 鶴平 (政 友)
木村 正義 (政 友)
石坂  繁 (国同盟)
大麻 唯男 (民 政) 〔二区〕伊豆 富人 (国同盟)
三善 信房 (国同盟)
坂田 道雄 (政 友)
小見山 七十五郎 (政 友)
蔵原 敏捷 (政 友)(昭和18年8月7日熊本空襲で死亡)

以上が当選した。
 何れも日本の政治史に残る大物ぞろいである。華やかなりし軍閥に、一矢を報いた肥後もっこすの代表たちである。
 昭和22年一町田(河浦町)の干拓工事(面積120町歩、工費3500万円)を最後の仕事として、翌23年2月16日巨木の倒れるように天草の英雄、小見山七十五郎は本渡市の病院でこの世を去った。享年64歳であった。 
 数百年間も続いた莫大な財産をただひたすら天草の人々の幸福のために使い果たし、一木一草だに残さなかった。
 彼の偉大な功績にただ頭が下がるのみである。

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