どんくタイトル
資-1深海の年中行事
月  日
行 事 名
行  事  に  つ  い  て       
1月 1日
正月正月元日は、深海では各部落共これと言った行事はなかった。
初詣でなどする人もなかった。
2日
鍬掛け浦河内、中の迫だけが「鍬掛け」を行った。
これは、先のつぶれた鍬を鍛冶屋で元どおりに修理して使用すること。
7日
おねび焼き鬼火焼き。左義長の事。部落ごとに海岸で松の木などを焼いて、煙の濃いいのを競った。
燃えかすを持ち帰り家の入り口に立て掛けて無病息災を願った。
14日
かせどり打ちうう正月(大正月)より小正月と言われて、かせどり打ちが行なわれた。
これは、日没後暗くなってから潮が満ち来る満潮までの時間「がらかぶ」と「餅」、「手芸品」と「餅」などを交換するのである。                          まず、玄関に「がらかぶ」をそっと置く、そしてもって来た合図に「拍子木」を打って物
陰に隠れてじっと待っている。そこの家の人は、置いてある「がらかぶ」に値する餅をも
って来て置いておく。今度は、家の人が物陰に隠れて「餅」を取って行く者に水を掛ける。
水は、清めの水であろうか。
15日
花まんじゅ柳の木を使用する所もあるが、当村では「ドショウの木」を使用する。
7・80センチのこの木の両端を20センチ程残して皮を剥ぐ、この皮はそぎ落とす事なくあたかも彼岸花の様な状態で残しておく。
出来上がったこの棒で、今年一年間に嫁入りした、新妻のじご(おしり)を叩くと、元気な子供を産むと言う願いがある。
花まんじゅうは、まだ紙がなかった時代の御幣として使用されたものである。(柳田邦男) また、九州の山地には、家の軒先に打ち付けておく村もある。 
深海では、「嫁御出せ、嫁御出せ」であり。
薩摩地方では 「嫁御出せ、焼酎出せ」と要求する所もある。
私等の小さいころは、 「花嫁御、大根噛ませんかん。おっどんがやったっちゅうちゃ、見もされん。婿どんのやらいたりゃ、取って噛まいた。」 と囃し立てたものである。
久玉の「内の原」には、太鼓を打ちながら、バチを股間に挟むと言う珍しい踊りなども残されている。中世のセックスをアピールする行事である。
旧 3月 3日
節句東多々良に餅をつく家はなかった。
薩摩の男尊女卑の風習をよく伝えている。
旧 5月   
はげどん
半夏生
梅雨明けの日の事で新麦の「小麦団子」(ダゴ)の事である。
小麦で作る団子には、「ケラ食わせ団子(舌団子・シタダゴ)」とも言うが、サルトリイ バラ(クヮックヮラ)(赤い実がなる)の葉で包み蒸したものである。
  よーしよしのクヮックヮラじょう(お嬢さん)
  食うてもよし、食わんでもよし
   よーしよしのクヮックヮラじょう
などと、小さいころ口ずさんだものである。
5日
節句「こいのぼり」ではなく、「武者絵の幟」であった。  
虫追い部落を太鼓を叩いて回るだけで、天草古来の虫追い行事の伝統は残されていない。
旧 7月 7日
たなばた
七夕祭り
里芋の葉にたまった朝露を、硯に集めて願いを書いて、大きな竹を切って立てた。
一番高いところには吹き流し、その下から「七夕天 の川」と書いた短冊を無数にくくり付け、 一番下段には、織女星の着る着物であろうか、縦縞の紙を着物の形に切り、「一年に一度の星合の空」と書いた。
夕方、お神酒・まぜご飯・西瓜、収穫には少し早いサツマイモ・ササグリ・ガネンブ(やまブドウ)・サセンブ(サセップ・木の実)・団子などを供えた。
この夜の供えものは、盗みに来る子供には水をかける風習があった。
旧 15日
お盆「正月三日に、盆二日」この言葉は、下男・子守りなどの奉公人の休みの日数である。
お盆の16日は、地獄の釜もお休みとかで1日追加される。
  おどみゃ 盆ぎり盆ぎり
  盆からさきゃ おらんと
  盆が早よくりゃ 早よ戻る
継ぎの当てられた、「ねんねこ」にくるまれた孫を背負って唄う婆さんに、
  「誰がゆっかせたかのい」(誰が教えたのですか)
と聞くと、
  「おりげん、盲ばさんの、ゆっかせらったっじゃわい」
と。老いて目を悪くした婆さんが教えたこの唄は、まだ哀調を帯びていたかもしれない。そして、この盲婆さんに、
  「そんな悲しい唄を誰が教えましたか」
と聞く人がいたとしたら、また同じ答えを彼女はするであろう。
  「はあい、婆さんのゆっかせらったっばな」
と。婆さんから孫へ孫が年を重ねて母となり、婆さんになったとき、贈る物とてないままにこの子守歌を孫へ贈ったであろう。
ハイヤ節をそえて。
旧 15日
十五夜どん
十五夜
十五夜の供え物は、七夕と同じ様なもので、七夕の時の物は収穫の時期に近くなっていた。
11月 最初の丑の日
山ん神祭りある青年が、無実の罪を訴えられ富岡へ引かれる日が「11月の最初の丑の日」つまり、「山の神祭り」の朝であった。
村人は親孝行の青年を惜しみ、せめて「小豆飯」でもとの心配りから、朝から祭りをして青年を送り出すことになった。
しかし、庄屋、年寄りの赦免の願いも空しく、彼は帰らなかった。
深海の「朝祭り」として明治まで伝えられた「山の神祭り」は、隣村からも御馳走の無い祭りとして言い囃される様になった。
深海の「朝祭り」は、昭和の頃まで続いた。