どんくタイトル
3-22もろもろの事
【山内の事】
河に副う平野のことは、「河内」。山に副って、或いは山に囲まれる平野は「山内」と言う。
家風に副って従う女性を「家内」、城では「内儀」と言う様なもので「山内」と言う言い方もすたれつつある。

【さくらん迫】
「迫」とは、「又」の事で、山の尾根が分かれた「急斜面」、或いは「崖」の事である。

【魚貫崎】
魚貫町の事を「鬼来たる」所とするのは対抗語がない。牛深市一帯は久玉を除き、対抗語と付随した言葉によって地名が残されている。
「蔵之元」があり、「上の倉」、「下の倉」(下須島)、「千反蔵」(浅海)、「蔵ん上」(深海)等。
「おにき町」とは「鬼を忌む町」、「福津」とは「福が集まる」と言う事であり、現代で言う「福は内」「鬼は外」の事である。

【慶長国繪図】
「慶長国繪図」の中に見える、牛深の地名は「対抗語」によって示され、古代天草郷の「郷割りの跡」を窺い知ることができる。
「ひらうら」(牛深市深海町下平)「上平」と「下平」、それに「産島」を併せたもの以北は、お宮に関連した地名が多く、「宮野河内」「小宮地」「大宮地」「宮田」「御所浦」がある。

【二浦】
「二浦」は、中世の時期には「早の浦」「亀の浦」の二村があり、「早馬」「早船」「早駕篭」が用意された「駅」であったのではないか。
「駅」とは、「従五位」以上の人に馬が用意され、それを乗り継いで行ける所である。
「五位」以下は「通し駕篭」、「山駕篭」などを利用した。

【潮海に相対する言葉】
「天付」とは、「海」(海を天)としたもので、「付」(つけ)は「月・築」などの文字に変化している。
深海の「出月(でづき)」は、下平にあり、牛深町の「砂月」長崎県の「生月(いきづき)」などがある。
天草も古代は「海濡(ままくさ)」であったと言う説もある。また、「天草案内」によれば、天草の異名を、「三島」「螺凝」「青螺島」「洞螺州」「瓢島」「天南」と称すとある。同書によれば、神代のころは「天の両屋」といわれ、「成務天皇」の御世には「建島松命」が「天草国造」に任ぜられた。とある。
湿地に、「あまくさ」と言う草がある。この草をウサギに食べさせると死す、と言うが、この草を漢字では「苓」と書くので、「天草」の事を「苓州」と呼び、「苓南」「苓北」とに分けて現在「苓北」と言う言葉が残っている。
天草の形を、「子を連れて波間に躍る兎哉」と、形容している。

【天草案内】から
天草の地名を「天草案内」(大正13年、元田重男・みくに社発行)によれば、「天草」とは、「上下二島」並びに「大矢野」「長嶋」の総称にして、神代における、「天兩屋」(あまのふたや)の事であるとしてある。

【天草の事】
「天草」の事を「苓州」と呼んでいる。
「あまくさ」の事を「苓」と書き、「あまくさ」とは、「ウサギに食べさせると死ぬ」と言う草で、井戸の内側、湿地などに自生する草の事であり、その草からもじったものである「苓」を「あまくさ」と書く事から始まる。
古代天草は、一つの国で、天草の国主は「成務天皇」の頃「建島松命」と云い、天草国の中の郷名を「波太」「天草」「志紀」「恵家」「高尾」などの郷名が出てくる。(知名抄)

【牛深の地名】
牛深の地名は、「潮は深し」の意味で、「潮」が「牛」に訛ったものでなく、古代「潮」の事を「牛」によって表現されたものであろう。
岡山県牛窓市、(うしおはまろぶ)の意味。「潮」の早き事の意味であり、佐賀県の「牛津」は、「潮」を集めるの意味。
阿久根市の「牛の浜」なども「潮」の広さを表現し、出水郡東町と長島町を二分する「うしん瀬戸」があるが、当て字になっている。
牛深の事を、別名「水字湾」(あまくさ)とも云うが、「牛深湾」の○(判読不明)から取ったものである。

【天付】
古代には、「海人」たちの事を、男を含めて「あま」と呼んだ。海のジプシーの定着を意味するものであろう。

【下平と上平】
「天草氏」一町田に定着するや、天草東海岸、第一の要港(神戸商船大学所蔵、薩摩船旅之図による)として栄えた「ひらうら」(下平)は、「寺沢家」支配によって「上平」と「下平」に分割されたものであるが、「地名」「業病人」の捨て場などにより、その片鱗を伺い知る事が出来る。

【深海の地名】
深海の地名は、鎌倉時代に逸早くその名を見せた。村高の最も小さなこの地が重要な土地として認められ、江戸時代初期まで「水軍の根拠地」として重要な地点であったためであろう。
この頃の集落は、対岸の「ホウシの浦」「京泊」「矢の口」方面である。縄文遺跡の「椎の木崎古墳」(なこま)。中世の渡し場「矢ノ口」「鬼塚古墳」などを残している。

【浅 海】
中世期、海賊達の守り神であった「竜宮社」は現代は「じゅくささ様」として転化し、紀州有田地方の「密柑」はこの地が原産とされている。

【山之浦と内の原】
牛深市周辺の地名は、必ず二つの「対抗語」によって称えられ、「山之浦」と「内の原」は古語では、相対する言葉である。「内の原」とは、山を越えた箇所を云うのである。
「山之浦村」「浅海村」の玄関口とした「内の原村」は、江戸時代、正保の頃、久玉村に編入された。

【囃し唄】
   思い出しゃせんかのい
   泣きゃせんかのい
   時々きゃ思い出して
   泣くばかり
        サアー
   箱根は山だよ
   辛抱は金だよ

【覚え書き】

一、
隠れ切支丹の家紋「久留子紋」の事
二、
牛を追う「掛け声」の事(この付近の地名と煙草の事)
三、
ロシヤ帝国の日本語辞書が深海弁である事
四、
習慣・インテン・輪差・てんこぶ等が薩摩にしかない事
五、
明瞭に薩摩からの移民と伝える家系のある事(口元、西川、迫田)
六、
良い時、きゃあ生まれ、山田の新田、新田煙草の虫捕る間がない
七、
橋口家の出目は、開聞町であり、川辺仏壇の古きものがあったなあ。
八、
薩摩の隼人、大隅の隼人、甑隼人、天草隼人はないか。
九、
下平の「モンツキ唄」は、開聞町の出逢いと言う。平安の歌○の事
十、
他村をやじる、排他性の事
  (内の原のドンクジャ 思い思いじゃっさあ)
  (ニセのよかつは仙田ん田中 悪をたくらむ上野○)

【覚え書き2】
一、
大声で物事を知らせる習慣
隼人の名に負う夜声著しく 吾は告げまし妻と頼ませ
二、
子供同志の遊びの中から
いんてん 長さ三・四十センチの棒の先端を斜めにし、十センチ位の棒の先を叩いて飛ばす。鹿児島独特の遊び方。
輪差し 土面に1尺(30センチ)四方の囲いを描いて、草で1センチ径の輪を作り土中にかくして、箸様のもので差して遊ぶ。
三、
牛を追う場合の囃し
良いときゃ生まれた 山田の新田
新田煙草の虫取る間がない
好きなおご嬢の袖引く間もない
  ヨイショーヨイショ
四、
東の迫は、3月3日は餅なし
五、
てんこぶ(鼓舞)
六、
アク飯 (アク餅を昔から知っていた。)

【昭和初期の深海の子供と年頃の娘と父母の会話】
一、
ガッケいこーい   
待てチイのうでくっで
と子供言い
学校へ行こう
待ってくれ乳を飲んで来るから
二、
京帰り
トトぜっくゎりだわ
と娘かな
京都の紡績帰りの娘が
お父さんぬかるみですよ
(トト→父、ぜっくゎり→ぬかるみ)
京で覚えた「だわ」を使った。
三、
チョッしもた
アエも入れんで
アラしまった
アエ(饗、もてなす)ここでは「煮ダシ」の事
「煮ダシ」も入れなくて
(豆腐のアイもん)
(うう風で柿のアエて〔落ちて〕しもた)等がある。
四、
深海弁
鶏と烏の
おめき合い
深海の言葉は
にわとり(トト、トト)と、からす(カカ、カカ)の
どなりあっている (父→トト、母→カカ)
五、
じんべんな
重い孫をば
かるうばば
よく頑張っている (勤勉な→しょとんええ・ よか)
重い孫を
からっているおばあさん (かるう→背負う)