どんくタイトル
資-2深海の言葉
 言葉は国の手形なりとか、方言は土地の人との交流を図るうえでの大きな障害となってきた。
 古くは、臨済宗の僧、文之(ぶんし)が上洛し東福寺で(大学)を講じた際、禁中からお召しがあったが、薩摩訛りがたたりさた止みとなった。慶長4年(1599年)の事である。
 共通語(標準語)を話す能力の有る無しが、人格を評価する要因として大切なことである。
 集団就職した少年たちが、方言をやじられて職場を逃げ出し、放浪し、末は無頼の徒に落ちて行った話はいくらでもある。落とした話もある。明治10年頃の事だという。
 庭で、ハヤコ(手こぎ船の櫓にかける綱)をなう(ワラで作る)崎口弥平に、
 「チョウジ場は何処け」(手水場・便所はどこですか)
と、聞くものがいる。何回か聞くが判かりにくい。弥平は手を止めて、
  「アハン、今朝入港した鰹船の奴が、チジワ=チョウジバ(牛深沖の事で千々岩灘と言う)を聞いているな」
と思い込み、落ち着いた声で、
    「はい、お手ん崎ば出らしたろ 西の方が 千々岩灘でござすと」
     註‥お手ん崎ば出らしたろ=お手ん崎を出られたら
と、言うとまた、ハヤコをない始めたのである。

    お国訛りをついさとられて
    歌いましたよ安来節
なんとほのぼのとした歌詞であろうか。私は今、此処大阪に来ても家庭では20数年前の深海の言葉を使っている。今故郷では通用しないようなむかしの言葉も出てくる。
 10年程前のことである。
 急速で入港した船から2・3人上陸して何か言っている。作業員は言葉が判らず何か戸惑っている。近づいて一語聞くと、何と故郷のなまり丸出しの牛深弁である。私はいきなり、
  「あんたは、かせんな(加瀬浦)か、ふいぐたま(古久玉)か」
彼はほっとした表情と驚いた顔で、
  「はい、わしゃ「あかし」(久玉の明石)でござすと」
と答え、ウインチが故障で修理したいのでクレーンで巻いてくれとのこと。私は作業を中止し、船を交替させて、彼の要求を入れた。彼は、
  「大阪ん港じゃ、わしどんが言うても聞いてくれるもんは居りやっせんと、朝かる廻っとるばってん駄目でした。」
と、  「アオー、こんまれにおうて、よかったよォない」
  註‥(ああ、この人に会って、よかったよねえ、なあおまえたち)
と言って、何程かの金を出した時、
  「深海に戻れば、わしもお世話になっとじゃっかな。怪我せんごてな」
  「茶どん呑んでいけな」
と言ったが、事務所には入らなかった。
 地獄で仏とはこのことであろうか 精一杯の喜びを牛深弁で言って帰った。私も良いことをした嬉しさと仕事の充實さを感じながら、夕焼けの海に消えて行く彼の船を見送った。
 故郷の言葉を話した。今まで胸につかえていた何かが一ぺんに流れて行くような気がした。
 「 かごしま弁」と言う本の一節に、
目を再び本土に転じて、近世の三州、つまり薩摩、大隅、日向の方言に関する文献をふりかえって見る。まず挙げられるのは、小野高尚の随筆集「夏山雑談」(寛保元年・1741年)であろう。
 西國辺土 中にも薩摩国、肥後の国、球麻の郡などの人の言語は、上方の人のききては、耳おどろかすことのみ多けれど、彼所五百年来うごかぬ地にて、他国の人も多くいりこまぬ所なれば、古きことば猶残りたり、と。
 辺境の地に古い言葉が残るのは、柳田国男の「蝸牛考」にあり、学者でなくとも皆が考える所であり、深海も其の例にもれない。
 深海言葉の殆どが、鹿児島弁であり習慣、作業唄などもそうである。熊本県の中では、何処の言葉よりも、秘境五家荘の言葉がよく似て居り、交流の少ない地方が昔の言葉をよく残して居ると言う事である。
 享保12年(1727年)薩摩から大阪行きの帆船が出港した。米や紙、布、書物など藩士達に届ける、島津継豊の荷である。
 ゴンザと其の父それから叔父のソウザ等17人が乗り込んでいた。ゴンザは見習水夫で11才であった。船は嵐に遭い6ケ月と8日目にカムチャッカに漂着した。しかし、17人の乗組員中、15人は略奪によって殺され、ゴンザとソウザだけが残された。
 天草や薩摩では〇〇左衛門の事を〇〇ザ、又はジャと言う。
 この事件は、ロシヤ皇帝の知るところとなり、ペテルブルグの迎賓館で女帝アンナ・イワノーブナの接見を受け、キリスト教の洗礼を受け日本語を教えた。
 日本語とは薩摩弁しか知らなかったのである。250年も前の事であるから今、鹿児島でない様な言葉が日本語として残っている。
  (原歌)        (訳)
  赤っかヨカサケ    赤ブドウ酒
  ヨカサケ        ラインぶどう酒
  ヨカアマザケ      ビール
  カルカ         軽い
ラ行音をタ行音にしている点もある。
  白髪(しらが=シタガ)
  しらみ(シタメ)などである。
  牢屋(ろうや=ドーヤ)
  羅紗(らしゃ=ダシャ)
  堆積(積み重ねること=コヅム)
  暗い(くらがり=クラスミ)
など、ゴンザは残しているが現在の鹿児島弁は変化している。
  犬 (いぬ=イン)
  川蝦(かわえび=ダクマ)
など深海の言葉と同じことを漂流民ゴンザは、露語に訳している。
250年前の鹿児島弁は日露会話の辞典として残り、それより約50年前の深海移民は各地移民の侵蝕を受けながらも薩摩弁を守り続けた。そして現地の鹿児島には、激しい流?と出稼ぎによって変化され尽くした薩摩弁が使用されている。
 これから述べんとする単語も、深海に住まいしていたら忘れたであろう一つの言葉が、周囲に遠慮する事なく故郷の言葉を使い続けたから残した部分が多いと思う。実際、深海では使われなくなり「古語」となったものが多い。
 昭和9年に鹿児島の名山小学校の児童詩の中から深海の言葉を探す。

    「ジテンシャ」

 ハラ
ジテンシャガ トホル
フトカ ジテンシャニ
コメヒトガ ノッテ
ほら、
自転車が 通る
大きな 自転車に
小さい人が 乗って(深海では、コマンカ フトガ ノッテ) 
 ヨンゴ ヒンゴ  
ヨンゴ ヒンゴ
オシリヲフッテ トオル
(よろける ようす・ジグザグ)
(よろける ようす・ジグザグ)
お尻を振って 通る(深海では、ジゴバ フッテ トオル)
 この詩の意味も、現在の同地の生徒には半数以上が分からないそうである。
また、深海ではヒンゴは、二段下がって
 (は行、ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ)ヘンゴと使う子もいた。
 カカジョウ コノコハ 
ドベソ バノ
ドベソ キラオバ
ヘングリ モドセ
お母さん この子は  
出べそですよ
出べそが 嫌いだったら
押しこんで 戻しなさい
ここでも、デが一段下がってドになっている。(だ行、ダ・ヂ・ヅ・デ ド)
 私は、何の唄の歌詞か知らない。手鞠唄であろうか? 母が教えてくれた昔の唄である。
深海では、ハ行で一段上がる場合もある。
 キュウ
ムギバ ニョンニョコト
ヘエタッ ヂャットン
アシタ ドガンシタ  
テンキカ ノイ
ヂサン
今日
麦を  たくさん
ほ(干)した のですが
明日は どんな
お天気 ですか
お爺いさん
(ハ行、ハ・ヒ・フ・ヘ ホ)