【まるめくらんどのすけながやす】九州で最初に名をとどろかせた剣豪。 ※タイ捨流の祖。 |
| 17才の時、天草の豪族で本渡城主「天草伊豆守」に刀槍を師事する。19才の時上洛、「上泉伊勢守」と試合ってやぶれ、入門した。 修行すること数年、永禄年間に「足利義輝」の御前で師匠の打太刀をつとめている。 |
帰国して、相良家18代の「相良義陽」に仕えて「間諜狩り」のようなことをやっていたが、 永禄9年(1566年)弟2人と門人1人を連れて2度目の上洛をし、清水に参籠した。 その翌年、「上伊勢守」から免許を下賜された。そのごまたしても九州を出て江戸へゆくが、 伊勢守の死を知り、帰国するや「タイ捨流」を称した。 「タイ捨流」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて九州一円に広まった。熊本県人吉市には、「タイ捨流」を伝える人がいる。 |
※ | 天文9年(1540年)生まれ。八代の産。父は「丸目与三右衛門尉」。相良家6代の「遠江守定頼」の3男の後胤という。「タイ捨流」を開いてからの「蔵人佐」は、20代藩主の「相良長毎(ながつね)」から新知117石を拝領して、剣術指南役となった。しかし、晩年は「切原野」に隠棲し、もっぱら原野の開墾にあたった。5町3反歩の水田、6反歩の畑地など開いたという。 |
※ | 寛永6年(1629年)没。墓は「切原野」の「堂山」にある。 |