と驚いたと言う。「二俣」の田圃のことである。 この他、「大松」「多々良」に田を所有した。年貢の一番多かったのは藤川家の所有田で、東の迫「土手」(浜石)より上全部と外にもあったらしい。「一番升」(いちばんます)と言われた。 江戸時代最期の庄屋、「橋口嘉仲太」の仲間を勤めた「鶴田力三郎」さんの話で、 「あぼよーい、富岡行きは明日の夜明け立ち」 「久留」から「白木河内」→「一町田の向辺田」を通る。 「向辺田」から「今村」→「板河内の〇〇」を経由→幕府直轄の「御領林」、「福連木官山」から山中の漁民の里、「黒竜」の「船津」の前を通り「都呂々」から「西目往還」である富岡に至る。今の時間で、代官所に着くのは11時前、富岡代官所の中には深海の者が2人いる。 |