どんくタイトル
3-17庄屋について
 庄屋は村の行政一般に当たる責任者で、年貢米を徴収したり、役所から触書を廻したり村の警察や会計の管理が主な仕事である。
 年寄りは庄屋を助けて直接村政を取り扱うのである。
 大庄屋は苗字帯刀が許され、庄屋は苗字だけが許されている。
 深海には士分ではないけれども江戸末期以後はいろんな苗字を語っている人が10軒程あったが正式に許可されたものではない。
 庄屋の家の建て方については制約があり、寛永8年(1631年)の頃出された規約が江戸末期まで守られた。
  一、座敷は床袋棚、違棚はよいが書院は無用
  一、欄間の彫物、その他手の込んだ細工無用
  一、塗骨障子や総座敷の通し縁は無用
  一、次の間の欄間は無用
  一、用材は凡て、松杉に限る
  一、瓦葺きは無用、但し庇瓦はよろしい
と、言うかなり厳しい内容のものである。
 深海の庄屋、「橋口家」はやはり薩摩半島南部に起こる名門で一門の中には有名な「繪師」も見えている。戦後、同家で拝んでおられた仏壇は、恐らく同家が移民の際持って来られたのであろう。川辺仏壇で鹿児島のものである。
 天草の庄屋そして名のある家は九州本土からの移住者であるが、庄屋の昔の家作りは、上り口から座敷まで、木綿一反(33尺)はえて(ひろげて)も余りがあったと言う。土間2間半、倉が立っており庇瓦の堂々たる構えで現在の小学校がその敷地であった。
 富岡の代官所に庄屋の会議中の仲間の控室があり、仲間たちの自慢話の座でもあった。
  「深海の庄屋どんな、手間のかからない田を持っている。3反3畝畦3鍬ちゅてなあ、田圃の作業で一番しんどい畦塗りがたった鍬を3べん振ったらおしまいだ。」
 「ほう、そんな田もあるのかな」

と驚いたと言う。「二俣」の田圃のことである。
 この他、「大松」「多々良」に田を所有した。年貢の一番多かったのは藤川家の所有田で、東の迫「土手」(浜石)より上全部と外にもあったらしい。「一番升」(いちばんます)と言われた。
 江戸時代最期の庄屋、「橋口嘉仲太」の仲間を勤めた「鶴田力三郎」さんの話で、
 「あぼよーい、富岡行きは明日の夜明け立ち」
 「久留」から「白木河内」→「一町田の向辺田」を通る。
「向辺田」から「今村」→「板河内の〇〇」を経由→幕府直轄の「御領林」、「福連木官山」から山中の漁民の里、「黒竜」の「船津」の前を通り「都呂々」から「西目往還」である富岡に至る。今の時間で、代官所に着くのは11時前、富岡代官所の中には深海の者が2人いる。

富岡陣屋
┬ 代官┬ 詰役 ─ 藤中三十郎(下平)
 │      遠見番│ 大庄屋
 ├ 地役人│ 2名
 │ 山方役 ─ 鶴田正保のじいさん│ 月番
 └ 制勝組 ─ 鶴長道太郎(深海)┘ 庄屋
 ├ 警備方(肥後藩士)
 └ 長崎奉行所
 「鶴長道太郎」、まだ妻帯していない「ボッケモン」だがよく面倒を見るやつだ。
 「藤中三十郎」、島津藩からの口入れであったのか、書記を勤めている。父は島津藩士で「藤川某」の伜で、「中野」と言う「庄屋の娘」と駆け落ちして両方の頭文字を取って、「藤中」と名乗っている。後年深海村で幕府からの受け入れ事務を執った人である。
 代官所にはその外、崎津の番所役人で深海にも顔を見せる「奥山萩之丞」も声をかけてくれる。
 後年は、富岡県に出任した。そして「鶴田正保」さん(深海のお医者さん)のじいさんでもある。
 庄屋よりの書き付けを渡すと、
 「深海の庄屋は達筆だなあ」
と、表書きを係の者が見る。深海の「庄屋橋口嘉仲太」は近村に聞こえた達筆家であった。深海のお宮の鳥居の額「八幡宮」と書いたのも彼である。(現在のものは違う)
 彼は、自分が書いた字が彫り込まれた額を見て、
 「石工がこれ位しか彫れなかったら八の字が気に入らず四十数枚も書き直すのではなかった。つえ(無駄)な事をした。」
と嘆息したと言う。これも気持ちのよいものだ。