1570年代末になると天草地方に対する大友氏の勢力も次第に衰えてきた。変わって、北の「竜造寺氏」と南の「島津氏」である。 天正8年(1580年)島津の命により天草の領主たちは水軍を出す。 「竜造寺隆信」を討つためである。天草水軍は三角の瀬戸を経て、玉名郡の大島沖で竜造寺の水軍と遭遇し、散々の負け戦さであった。このため竜造氏の支配する所となった。 天正9年(1581年)「島津義久」、軍を肥後葦北郡まで進めことごとく平定し、相良氏も降伏し深海の対岸にある長島は、相良氏の領するところであったが、この時から、天草の長島は完全に薩摩の長島に組み入れられたのである。 天草各地に残る「十五社宮」は天草だけのもので天草の乱後に再建されたものであるが、長島にも「十五社宮」があるのは此の時代の名残である。 天正10年(1582年)「織田信長」は「明智光秀」に討たれ天下の形勢は目まぐるしく変わった。 天正15年(1587年)天草五人衆は、島津の軍に従って大友氏と戦っていたが、島津氏は豊臣秀吉大軍を率いて九州に下り、筑前の秋月城に入ったとの報らせを受け、軍をまとめ薩摩に引き上げてしまった。この時、天草勢は大友勢に囲まれて孤立してしまった。攻めたのは大友氏の武将で、熱烈なキリシタン信者である「ドンパウロ(志賀親次)」である。 天草島を領する五人の殿が城中にいたが、その中には河浦の領主「ドン・ジョアン」(天草久種)が在った。「志賀親次」は同じキリシタンの誼を以て命を助けようと申し入れた。しかし、ジョアンは人を遣わして大いに感謝した上に一人だけ助かる事はできません。恩恵を与えるについては、名譽を全うせん事を請い、もし一同の生命を全うせしめりことができれば城と共に降伏するであろうと言わせた。 ドン・パウロは、ドン・ジョアンを許して大いに歓待し、肥後の国まで安全に見送った。彼の殿たちは大いに感謝し、その後大矢野殿と称する人は部下一同と共にキリシタンとなり、他の人も帰依することが期待される。 (ルイス・フロイスの1588年2月20日付けの年報による)天草の歴史より。 この後すぐ天草勢は筑前秋月にいる秀吉の下に走り秀吉に忠誠を誓った。秀吉は島津攻撃の加勢を命じ、天草勢は水軍を立て直し川内川に討ち入り手柄を立てた。天草久種はこの時、天草郡内6785石の朱印状をいただく。 永禄元年(1558年)志岐麟泉の乞いにより、修道士ルイス・デ・アルメイダ長崎の口之津より来てキリスト教を天草に布教す。 永禄12年(1569年) ルイス・デ・アルメイダが、河内浦(一町田)に布教を始める。このとき、同地には寺を主体とした、仏教徒との紛争が起こる。 |