全国で武士の勢力が盛んになったころ、上天草には地頭職の名が判明している。「藤原光弘」である。建暦2年(1212年)「順徳天皇」の時代、将軍「源實朝」の時である。 【 天草種有譲状案 】
「ぢょうゑい」2年2月26日(貞永) |
| 天福元年(1233年)4月改元、たねあり入道書付 ひこのくにあまくさのこほりのうちたねありが領 本砥島 地頭職入道かりやうほんどのしま万ちとうしきの乃事 右くたん乃島地頭職は幡摩乃局をちゃくしとして代々乃御くたしふみをあひくして、ゆづり渡す所なり、このうち河内の浦(一町田)はめにて候も乃、ならびに、こま王におもひあて候ぬ、又おほミ(大江)と申し候。 むらは、女子をくくまにゆずり候ぬ。 かちやまがうち、をなしきしんひらき、たかハま(高浜)、ひらうら(平浦→下平・上平)、うふしま(産島)ハ又太郎入道にゆづり候ぬ。以下略 ぢやうゑい2年2月26日 |
| | たねあり入道 在判 |
「平浦」とは「牛深市深海町下平」と「河浦町上平」の事であり「産島」を加えて譲ったものであろう。 「種有入道」とは鎌倉幕府から任ぜられた「天草本砥」の地頭の事である。種有は地頭職を播磨の局に譲り、播磨の局は種有の「菩提」を弔う為に、本渡市亀川の地に「来迎寺」と言う寺を建立した。そしてこの種有の孫で尼の「妙性」が後継者となり子供達に領地を分配した。 |
| 前文を略す 彼ら五人は、妙性の分たるべき候。このほかの浮免百姓、こハのもの大多尾、深海、塩屋、(新和町)ふなた浦、分定め候はんほとハ、両方より召仕うべき候。以下略」 應長元年(1311年)8月14日 |
| | 尼妙性 在判 |
この天草には天草八人衆、志岐、天草(河内浦)上津浦、大矢野、栖本、宮地、久玉、長島の八氏で現在の牛深市の内、深海町は「天草氏」に属し、その外は「久玉領」である。 天文元年(1532年)の頃、久玉氏・宮地氏は「天草尚種」に併呑され、天文23年(1554年)「長島鎭眞」は相良氏の弾圧に耐え兼ね、長島を棄て出水(鹿児島県)に逃れ、変わって「天草尚種の弟」が長島の城河内に駐在して、長島氏滅亡後の長島を治めたが、10年にして出水郡野田の城主「島津忠兼」より改められ行方不明となる。 今牛深町に「下の倉」「上の倉」、浅海に「千反蔵」、深海に「倉んかみ」「殿越」(とのごえ)「矢の口」(渡し場の事)、河浦町宮野河内に「蔵之浦」があり、長島には「蔵之元」がある。この時代に残った地名であり、これから天草五人衆と言われるようになる。 天文12年(1543年)この頃京都より出版された「薩摩船旅の図」に「平浦」がある。天草西海岸に、ふくろ(富岡)、崎津。東海岸に、ほんど、なか田、ひらうら、など記入されている。 |