小西行長は、天正17年(1589年)宇土城築城に当たり、城普請の加勢を天草五人衆に要請したが、五人衆(栖本・上津浦・大矢野・志岐・天草)之に従わず、小西行長と天草連合軍は戦いとなり、行長は、3千の兵を袋湾(富岡)に差し向けたが、志岐の城主「志岐麟泉」一挙に全軍を屠ってしまった。 あわてた小西行長は、「加藤清正」に援軍を依頼する。加藤清正は1万の兵を以て志岐城を破り、さらに、仏木坂に「木山弾正」を破り、「天草伊豆守」を下した。 「天草伊豆守」は、キリシタン名を「ドン・アンドレア」と言い、熱心なキリシタンである。 天正17年11月25日、本渡の城に「伊豆守種元」は、1300余名のキリシタンとともに運命をともにしたが、此の際の婦人の奮闘は雄々しく天草の人々の語り種として永く伝えられている。 天草一族の中の、河浦城主「天草主人」は生き残って「小西行長」に仕え、その子孫は深海小学校の教師として赴任した事がある。 天草を平定した小西行長は、「豊臣秀吉」の命を受け浦々水夫を60才以下15才までを徴して、朝鮮出兵の準備をする。 天正19年(1591年)「天草学林」はキリシタンの大学で、 文法学級 3年 (語学課程) 哲学と古典文学学級 3年 (一般文学学級3年) 神 学 4年 (専門課程) の10年制大学である。この学校の事を「学林」と訳された「コレジオ」は我々には大学と訳した方が分かりやすい。 |
一、 | 語学課程 | ラテン語、ポルトガル語、日本文学、ローマの古典文学など。 |
二、 | 一般教養課程 | 自然科学をテキストとした、暦学、気象学を教えた。 |
三、 | 神学 | |
これらの本は、「天草学林」の付属印刷所によって作られた。そして、現在でも各地に残されている。 「天理図書館」「東洋文庫」「大英博物館」など、十数ケ所に残っており文化の高さを物語っている。 また、「天草本」と言われるのは此の本のことで、天草で印刷されたと明記されたもの8種、推定されるもの4種が「平浦(下平)」の港から、今を去る386年の昔、現在の下平分校付近から船積みされたのである。 その中の2冊が「天理図書館」へ、1冊が「飯島幡司」氏によって保管され、その他は「大英博物館」などに保管されている。(河浦町史より) 【キリシタンの壷】
高さ 約45センチ 直径 35センチ 口は折り曲げて作られ、胴に古い文字で、「愛」と書いてあり、軸薬も小豆色で古めかしい。 「亜衣」とは、キリシタンが考え出した言葉で、神の人に対する思いで、仏教では「慈悲」と伝え、キリシタンでは、「愛」と伝えた。 日本には、それまで「愛」と言う言葉はなかったのである。 文禄元年(1592年) |
| 1月 5日 | 秀吉「征明」の軍を編成し、 |
| 3月26日 | 京都から「肥前」の「名護屋」に向かい、 |
| 4月12日 | 小西行長、有馬晴信とともに、兵船七百余を率いて朝鮮「釜山」に向かう。 |
| 4月13日 | 小西行長は、「釜山鎮城」を陥れ、 |
| 4月14日 | 慶尚道「東菜城」を攻略す。 |
文禄2年(1953年) 小西行長、平壌において明将「李如松」に囲まれて退く。 文禄2年5月、小西行長は、明の使節「謝用○」を連れて「名護屋」に帰る。 以上が、朝鮮における小西行長の行動の大略である。 この時代の「深海」の住人たちは、その幕下として行動を共にしたのである。今に残る小西の家紋入りの「陣太鼓」は、その遺品として「法螺貝」と共に伝えられたのである。そして、太鼓は太鼓だけのものでなく2千石以上の武士の持つセットされたものである。 黒うるしの「胴」に朱の「九曜の紋」が入った実に立派なものであった。 鉄 砲 10人 弓 5人 槍 5人 槍持ち 2人 太鼓 2人 鐘 1人 法螺貝 1人 大将 1人 小荷隊 10人(馬) 以上が2千石取りの侍が用意する人員と馬と武具であり、これは当然の義務でもある。 キリシタンは、小西行長の朝鮮出兵後も普及し、深海を中心とする「宮野河内」「上平」「下平」「浅海」などに、明治維新までお寺がなかったのは為政者が、「天草久種」(ドン・ジョアン)「天草伊豆守種元」(ドン・アンドレア)「小西行長」(ドン・アコスチノ)など洗礼を受けた武将たちであり、行長はキリシタンに転宗した者には、一年間の年貢を免除した。そして、領土内に「神社」や「お寺」の存在を認めず焼き払ったため、乱後、「浄土宗」や「浄土宗新宗」が進出したときは、村は空っぽだったのである。 |