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3-13島原天草の乱後の天草
 島原天草の乱後天草は、「山崎甲斐守家治」の領地となり戦火によって荒廃した富岡城の修理が3年の月日を要して行われた。それに伴いキリシタンの取り締まりも一層厳しさを増した。
 寛永18年(1641年)富岡城の修築が終わると城主「山崎甲斐守」は讃岐の丸亀に転封となりこれより天草は、幕府が支配する領地すなわち「天領」となり、初代代官に「鈴木重成」(900石)が任ぜられた。
防備の事はこの時肥後藩に預けられ千人の藩士が20隻の船に分乗して川尻より出港した。3万人も居た天草の島民は、悪政による逃散と乱による戦死、キリシタンの取り締まりによる、斬首などで、1万人位のものではなかったかと推測されている。はっきりした人口はこの後万治元年(1658年)の記録に1万6千人とある。
 約20年にしてこれだけになったが、殆どが移民によるものである。
 幕府もまた天草の再建には心を配り寛永19年(1642年)には天領と九州の諸大名に対して、1万石について1戸の割りで、移民を強制的に割り当てた。
 薩摩藩からは155人、30戸、馬419頭となっているが、数がまちまちである。当時の経済状況で一人の百姓が馬を何頭も持てないし、農家1戸に数頭の馬も持てない。併し深海の人々はこのころから江戸時代中期までの薩摩からの移民である。
 その証拠に天草の言葉が牛深・本渡・富岡と少しずつ異なる様に、薩摩の言葉も変わるが、深海の言葉には、作業唄も薩摩では昔は使われたが、現代は使う人がいないというような言葉が、深海にはまだ残っているのである。「習慣」も「言葉」も「年中行事」もそうである。
 鹿児島県の「姶良郡」と「川辺地方」に残る「言葉」と「行事」がそのままの形で伝えられている。
天草の移民政策は乱後50年も続けられ、正保4年(1647年)5百人の移民を受け入れこの後万治2年(1659年)には先にも述べた様に1万6千人の人口を数えた。漸くにして天草の総人口は現在の20分の1となったのである。移民の者には住居も与えられている。
住居の殆どは12~3坪の藁葺きの屋根である。10坪以下の家も多く殆どは南向きであるが縁もない家も多かった。嫁ぐ娘に母親はこんなことを言った。
 「えんが(縁)無かったら、いつでんもどってけえ、ふとちじょちゃしてよかで」
と、即ち
 (縁が無かったらいつでもいいから、帰っておいで、一所に世帯したらいいじゃ無いか。)
 翌朝娘はけろりとして帰って来た。
 「かか、えんな無かったばのい」
 (お母さん、お縁はありませんでした)
なるほど、「縁側」の無いのと、「縁が無い」のとを取り違えた娘の話である。
その頃の家は村の共同作業で作られている。
 食料のない者には食料も支給され、農具や種苗も与えられた。「鈴木重成」は122ケ村あった天草の村々を87ケ村にし各村に「庄屋」を置いてその下には「年寄り」「百姓代」を置いた。
 深海・浅海・下平浦村の3ケ村を合併して「深海村」とした。久玉組も深海村となった。
 庄屋は「橋口家」で世襲とし「年寄り」「百姓代」は正月3日の初寄りで決めることになってはいたが、「鶴長家」を「常年寄り」と呼んで代々これを世襲した。
 深海村最後の庄屋は「橋口嘉仲太」で年寄りは「鶴長善平」23才である。
 久玉氏は久玉町「信福寺」によってキリスト教の蔓延を防いだ。
 河浦村には天草古来の「虫追い」の行事が残されているが、薩摩一色の深海には天草の殆どの村に残るお祭りの行列さえも行わない。
 明治の中頃、「口脇辰平」は村祭りの大名行列を行なう様努力したが、徒労に終わった。薩摩隼人の残す、満月信仰の行事である「十五夜の角力」と、「伝達事項を小高い所に上り大きな声で伝える」薩摩隼人族のやり方を伝えている。
 「でもん持ってこんばんぞー。あしたん朝までぞー」
これは、税金を区長さんの家まで納めるようにと言う呼び方である。現在は、町の広報スピーカーで知らせている。
 万葉の恋歌に、
 はやひとの 名におふ夜ごえ いちぢるしく(隼人の 名に負う夜声 著しく)
 わがはつげまし つまとたのませ(吾は告げまし 妻と頼ませ)
 この歌は、名高い薩摩隼人の夜警の声のように、はっきりと自分の名前を名乗りました。どうか妻にしてください。と言う意。