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3-12寺沢領時代と島原天草の乱
 慶長8年(1603年)肥前唐津の城主「寺沢志摩守広高」の所領となり直ちに全天草の検地が実施された。
 この調査の上がり高は、
 田  畑3万7千石
 その他の賦課金5千石 
(一、お茶。二、塩釜。三、地引き網。四、桑。五、その他)
 合  計4万2千石
 当時の天草の人口は、
 男  女2万5千人
 当時の深海村は、
村 高 61石9斗   7合
 
内訳 田
 37石5斗4升4合
 
  3石8斗1升3合
 
その他
 20石5斗5升
 当時の下平浦村は、
村 高126石4斗2升6合
 
内訳 田
 92石2斗3升7合
 
   6石  4升2合
 
その他
 28石1斗4升7合
 当時の浅海村は、
村 高  52石  4升3合
 
内訳 田
 26石2斗3升
 
  2石9斗7升1合
 
その他
 22石8斗4升2合
 以上が現在の深海町の総生産高であり、古老の伝えた深海3ケ村である。
 深海の人口を考えてみよう。
 天草の総高の700分の1が深海の生産高である以上、人口も2万5千人の700分の1と仮定すれば、深海の人口は36人位。家族形態からして7戸か、8戸である。
 耕地のうち水田は、当時のことをいろいろ総合して考えた場合、2町歩か。
 山の浦と内之原を別にした、久玉村の6分の1である。しかし、深海のその他の20石は土地関係ではない。山に囲まれた盆地である「板の河内村」(河浦町の一部落)は、深海よりも27石も多い、87石の村高であるが、その他が1石にも満たない7斗6升7合であると言うことは、深海のその他の20石は海に関係する事が分かる。とすれば、鎌倉時代以降は「深海往還」として河内浦氏(天草氏)の海の玄関口として栄え、小西行長の時代には朝鮮征伐の船手組として後世の天草の乱の折りにも愈々船が活躍したことが伺われる。
 深海とは海が縦に深い事ではなく湾の奥の深さを言ったものである。  浦河内は「のぞけん鼻」まで、多々良は「旧滝下栄治郎」氏の家までが当時海であったろう。
 耕地と村高から考えると、
 深海は人口  35~6人、
    戸数    7~8戸であるが、
 その他(20石)を考え合わすれば、
    人口   50人弱、
    戸数   14~5戸
の小部落であったことに間違いない。
 深海の直接の上司は「河内浦」(一町田)駐在の「中島与左衛門」で食禄400石である。寺沢領の時代は領主が「広高」から二代目「兵庫頭堅高」までで志岐の「袋浦」に城を築き「富岡」と改称して番代を置き初代「寺沢熊之助」から37年間に7代「三宅藤兵衛」まで7回も更迭したが、郡代の「中島与左衛門」は足軽10人と共に続勤し領主の苛政を助けた。
 天草の上り高を4万2千石とした事が領民を苦しめ天草から逃散する人々も多分多かったようで、乱後薩摩その他からの移住で天草の人口を満たしたがこの時は薩摩への逃散も少なくなかった。
 年貢による島の脱出とキリシタン弾圧によるものである。重税に苦しみ、現実の生活に希望を失った人達は神の救いを求めるのは当然の事である。
 高浜村に残っている寛永10年(1633年)のころび證文がある。
  私は数年キリシタンでございましたが、先年のお改めにてころび申し、一向家になりました。しかる処、この度「赤崎村」(上島)にバテレンが来たのをお捕らえなされ、いよいよキリシタンの宗門をお改めにつき重ねて書き物を仰せつけられました。総じてキリシタンの宗旨は魔法の教えでございます。
 われら妻子、召使のものまで残らずころび申し、キリシタンの宗旨は一人もございません。
 もし立ち帰ります時は、親兄弟までも火あぶり に仰せつけください。後日のために、かくのとおりでございます。
     寛永10年6月25日
  庄屋 孫兵衛
以下 家族名で8名
さらに檀那寺の住職が証文を付け加えて番代に届けるのであった。
 天草を4万2千石とした事は過大評価であり百姓には上納でき兼ねない者が続出する。上納できない者には「蓑踊り」と称して、蓑を着せ火を付け苦しさにのたうちまわる様を言い、キリシタンの信者にもこのような事をした。
 寛永5年(1628年)頃からの税の取り立ては特に厳しくなり、家を建てれば建築税、炉を作れば「炉税」「窓や柵」を作っても「畳を敷い」ても税、子供が生まれては「出産税」、「死者を葬れ」ば「穴税」をかけた。柿の木なども課税の対象となった。
 深海の石高と他村の石高とを比較して見よう。
 松崎村
村 高 57石408
 
内訳 田
 47石052
 
  5石727
 
その他
  4石629
 西高根村
村 高 75石501
 
内訳 田
 43石269
 
  6石457
 
その他
 27石890
 宮野河内村
村 高180石178
 
内訳 田
136石387
 
  6石457
 
その他
 37石334
 以上江戸時代に合併して「宮野河内村」(久玉組)となり昭和29年11月1日「河浦町」になった。

 山の浦村
村 高 46石876
 
内訳 田
 30石142
 
  3石194
 
その他
  6石187
 内ノ原村
村 高 77石960
 
内訳 田
 65石219
 
  6石187
 
その他
  6石554
 久玉村
村 高 347石462
 
内訳 田
261石382
 
 22石935
 
その他
 63石145
 牛深村
村 高340石807
 
内訳 田
266石180
 
 14石857
 
その他
 59石770
 魚貫村
村 高372石839
 
内訳 田
286石333
 
 25石094
 
その他
 61石412
 亀浦村
村 高260石750
 
内訳 田
204石199
 
 12石836
 
その他
 43石715
 早ノ浦村
村 高 81石760
 
内訳 田
 68石405
 
  3石477
 
その他
  9石878
 以上は昭和29年7月1日牛深市となった町村の分。
 深海付近の村割りは小さく「122ケ村」で、鈴木代官の代になり「80餘ケ町村」となる。
 寺沢領時代は浅海村も深海村も下平村もそれぞれ「庄屋」がいたが、今のところ知る手掛かりはない。