以上が現在の深海町の総生産高であり、古老の伝えた深海3ケ村である。 深海の人口を考えてみよう。 天草の総高の700分の1が深海の生産高である以上、人口も2万5千人の700分の1と仮定すれば、深海の人口は36人位。家族形態からして7戸か、8戸である。 耕地のうち水田は、当時のことをいろいろ総合して考えた場合、2町歩か。 山の浦と内之原を別にした、久玉村の6分の1である。しかし、深海のその他の20石は土地関係ではない。山に囲まれた盆地である「板の河内村」(河浦町の一部落)は、深海よりも27石も多い、87石の村高であるが、その他が1石にも満たない7斗6升7合であると言うことは、深海のその他の20石は海に関係する事が分かる。とすれば、鎌倉時代以降は「深海往還」として河内浦氏(天草氏)の海の玄関口として栄え、小西行長の時代には朝鮮征伐の船手組として後世の天草の乱の折りにも愈々船が活躍したことが伺われる。 深海とは海が縦に深い事ではなく湾の奥の深さを言ったものである。 浦河内は「のぞけん鼻」まで、多々良は「旧滝下栄治郎」氏の家までが当時海であったろう。 耕地と村高から考えると、 深海は人口 35~6人、 戸数 7~8戸であるが、 その他(20石)を考え合わすれば、 人口 50人弱、 戸数 14~5戸 の小部落であったことに間違いない。 深海の直接の上司は「河内浦」(一町田)駐在の「中島与左衛門」で食禄400石である。寺沢領の時代は領主が「広高」から二代目「兵庫頭堅高」までで志岐の「袋浦」に城を築き「富岡」と改称して番代を置き初代「寺沢熊之助」から37年間に7代「三宅藤兵衛」まで7回も更迭したが、郡代の「中島与左衛門」は足軽10人と共に続勤し領主の苛政を助けた。 天草の上り高を4万2千石とした事が領民を苦しめ天草から逃散する人々も多分多かったようで、乱後薩摩その他からの移住で天草の人口を満たしたがこの時は薩摩への逃散も少なくなかった。 年貢による島の脱出とキリシタン弾圧によるものである。重税に苦しみ、現実の生活に希望を失った人達は神の救いを求めるのは当然の事である。 高浜村に残っている寛永10年(1633年)のころび證文がある。 |