どんくタイトル
3-7深海の囃し唄
 【深海の牛(馬)追いばやし】

 深海の牛を追う時の囃しは、全部が薩摩系のものである。深海は明治初年まで百姓家では使役として地形に合致した「牛」を使用せず、薩摩系の「馬」を使用した。深海への移民の際も恐らく「馬」と共に来たのであろう。薩摩で「囃した」そのままで、 囃し唄が残っている。
一、
よか時生まれた 山田の新田ホイ(一むち入れて)
新田煙草の   虫捕る間がない
可愛いおご女の 袖引く間もない
  ヨイサヨイサ
二、
ドッコイ堂崎キャ粟所サア
粟ん中きゃころだりゃ犬が吠えた
犬どんが吠えても仕事はして来い
  ヨイサヨイサ
三、
想い出しゃせんかのい
泣きゃせんかのい
時々きゃ想い出して泣くばかり
  ヨイサヨイサ
 一、と二、は南鹿児島の町の地名であり、三、は移民した人の望郷の詞である。さいごは、「ヨイサヨイサ」と追う。
 平和な農村の恋歌を唄い続けたものであり、下平の「トンゴン迫」一帯に杵の音がこだましたであろう。平和なこの村には、しばしば「天然痘」が流行した。「天然痘」にかかればすぐ「馬刀島」へ隔離されるのである。
 サマの墓所の
はよけ早うけと
つるき崎から
サマの墓まで 
馬刀島松が
手で招く
身を投げましょか
ひと流れ

 【下平のもんつき唄】

 深海の農作業は、方言に言う「かちゃり」と「かちゃり戻し」の作業によって行われている。
 夜なべ作業も米麦や粟などの脱穀作業も麦をこぐ千歯(せんば)の作業も夜遅くまで行われた。
 夕食ころの事を「宵の口」と言い、それから先は「よさる」である。恐らくこんな字を当てるのであろう。「宵去る」(ヨイサル)(よさる)と。
 籾ばついてよ  加勢さいた人にゃヨ
豆の出てから  さやながら
声ははらはら  立つ声なれど
サマに臆して  こや(声は)立たぬ
トンゴ通いで  生爪起けた
石がなければ  良かトンゴ
カンス薮かげ  サマジョを待てば
赤いイチゴの  実の熟(う)れる
  (昭和55年4月1日、牛深市「無形民族」文化財に指定される。)