どんくタイトル
3-6海に関する地名
【 なこら 】(久玉町)
【 なこま 】(深海町)
共に海の静かなことで、名古屋、名護屋なども同じく「凪ぐ」の語源から来たもの。
【 かま 】河浦町のかま(同町下田)、すの釜(深海町下平)江戸時代までの「塩釜」の跡。
【 しかま 】古代漁場の意味(深海町下平)
【 京泊の浦 】 船乗りたちの西風避難の浦である。
鹿児島県川内市の京泊り。
熊本県牛深市深海町の京泊の浦
熊本県田之浦町の京泊り
熊本県葦北郡津奈木町の京泊
熊本県天草郡御所浦町京泊
長崎県南高来郡小浜町京泊
などがある。
  また、地名ではないが航海者には略奪からの安全と水を知らせる、(あこうのき)があり、
【 榕樹 】(あこうのき)
【 淦(アカ) 】(船の底にたまった水) などの忌み言葉。
【 尾根二俣 】(おねふたまた)に「船繋ぐな」等、地形的な縁起をかつぐ言葉もある。
【 東泊 】(こちどまり)
【 南泊 】(はえどまり)
なども牛深周辺にはないものの他の地区に散在する。
【 船がくし 】 深海町「浅海」、魚貫町、御所浦町などに残る地名で、海の宰将(サイショウ)と言われた「小西行長」の船置き場である。
天正19年(1591年)豊臣秀吉は沿海の諸国に造船を命じた。
文禄元年(1592年)4月12日、小西行長、有馬晴信等は、700余の兵船を率いて釜山浦に入港する。この兵船を操り櫓を漕ぐ人は牛深漁民であった。彼らは船待ちの合間にブリ網を考案した。
(ネムノキをつけた網)この網が、赤碕村では「鯛網」となり、 牛深では「ヒラシバ網」となった。
  「征明の役」の功によって、山林を持たない漁民の為に、
 「ネムノキの伐採、勝手たるべし」
との伝承が、小西行長の亡き後江戸時代末期までも続いたので ある。
【 千反蔵 】(せんだんぐら)
天文23年(1554年)7月「長島鎭眞」は、相良氏の弾圧に耐え兼ねて「長島」を捨て「薩州出水」に逃れた。この後、長島は河浦城主(一町田)「天草伊豆守尚種」の弟、「天草越前守」を長島城河内に駐在させ「長島氏」逃亡後の長島を十年余り治めた。
永禄8年(1565年)3月24日、島津の「将島津常陸守忠兼」より攻められ行方不明となったが、この十年間の上納米をおく蔵のことではあるまいか。
牛深の人は「平須」の「下の倉」「上の倉」をこのときのものと書き、河浦町の郷土史家は「倉ん浦」(宮野河内高根)だけを記し、無理に河浦城に結ぼうとしている。深海に天草三大往還の一つ、「深海往還」があり、「多々良迫」に「蔵んかみ」があり、浅海に「千反蔵」があることは忘れ去られている。
【 波戸ん迫 】(はとんさこ)とは「船着き場」の事で、波止、波戸、と呼ばれ現在の「埠頭」のことである。「波戸ん迫」の「波戸」は50年前 までは下の土台の石のみがまだ10m程対岸の瀬の方に伸びている。
【 矢の串 】又は「矢の口」は(地名の探求・松尾俊郎・人物往来社)によれば、「渡し場」の事としてあり、江戸時代には、波戸ん迫にあれだけの波止を作るような人家も、渡し口の地名を残すようなことも考えられず、古代から中世にかけての地名である。5世紀から6世紀ころは、この海峡一帯を支配した長島の鬼塚古墳の被葬者達の(係累不祥)渡し口か。そして、それに要した船の波止場か。
 天文元年(1532年)頃、深海の領主であり長島を支配した河内浦(一町田)の城主天草尚種は一番近い「矢の串」を渡し場としたのか。天草水軍の根拠地としての船の溜り場か、島内唯一の大豪族となった天草尚種は水軍をもっていたことは文献にも見られるがその船着き場の事は明らかでない。恐らく歴史家は、中国などの文献にも見える崎津、軍ケ浦の事を指すのかもしれない。当時の船で長島海峡、不知火海の防備、あるいは攻撃を考えるとき魚貫崎、牛深沖の波濤を越えて来ることは此れも想像することは無理であろう。
 私が若し当時の軍船の船頭であるとしたら、下平、上平、宮野河内、久玉、牛深とあるけれども、いつの頃からか地名として残るこの「波戸迫、矢の口」を選んだでありましょう。
 船は入港するとき既に出港のことを考えるからです。此処は出港して本流に乗るまでが最短距離であるからです。江戸時代の中頃、「波戸ン迫」は、干拓工事と埋め立て工事により狭くなりそして海も浅くなり、かって繁盛を思い出させるものはないが、石の必要で削り取られ少しだけ残され、短くなった波戸場と鬼塚の地名と発掘された石の釜(沖崎七郎)があるのみである。
【 まて島 】深海町1番地である。「馬丁島」「的島」地図によって違っている。深海から海上一里の所であるが、潮流の関係で干潮のときは「御堂ケ浦」の沖から産島を向けて漕ぐと「まて島」に潮流が連れて行ってくれる。満ち潮の時は「畑尻」から長島に向けて漕ぐのである。
 夜明け3時頃「船ダン(霊)様」の勇む音を聞きながら1時間も漕ぐと「まて島」ザコの漁場に着く、今は10分位で着く、機械船のお陰である。また、「まて島」は疱瘡(ほうそう)の島である。
下平は「後山」の山中が江戸時代以前の疱瘡墓であるが知る人はない。「下平」と「上平」の接する川向こうの「久留領」の中である。
 寺沢領となる前の疱瘡にかかった人の山小屋はここ久留山中である。この時代の村割りは、久留も下平も同じだった事が証明される。江戸時代の中頃、平床川に水を飲もうとしたのであろうか、頭を川に垂れたままの婆さんが死んでいた。この人も上平と下平の境界より少し下がった官山の中に葬られている。これから平床川を婆(ババ)川と言うようになった。
 もう少し、まて島の話をしよう。
  江戸時代になると。深海と下平は合同で「まて島」を業病人(疱瘡)の捨て場と決めて、発病すると病気が移らないように無理にまて島に連れて行った。
 元気な患者は苫(トマ)を貰い小屋を建てて飯を炊いて食べた。水がなくなると島の上手で松葉を炊いて知らせる。米や麦を要求するときは中程で炊き、死人が出たときの知らせは、琵琶瀬のほうで松葉を炊いて狼煙を上げた。そして、病人は息絶え絶えになり狼煙を上げる元気もなく死んで行った。
 深海の孫市、孫六の兄弟も、東の迫の学者「篠原國七」(篠原国幹?薩摩の学者)も、下平の「トンゴン迫」の「お松の様じょ」も看取る人さえもなく、琵琶瀬の海鳴りを聞きながら息絶えて行ったのである。
 海峡の中間の島に「馬」を当て字にした所は多く「まて島」とは「地名の探求・松尾俊郎・新人物往来社」によれば「海峡の島」であることが明記され、「馬」は「間」が当てられている。
海の地名01


深海の沖、約1里の海上にある「まて島」である。

追記=平成18年7月

まて島はもと深海本郷地区と下平地区の区有財産であったが、大正12年11月2日、深海村へ寄付。

さらに、昭和45年4月21日合併により現在の所有者は牛深市となっている。

ちなみに所在は、深海町字向山4769番2 [山林(1938㎡)]

海の地名02

1=猪行田(下の尖った所が「アナンクチ」)※地図には「キヨタ」と出ている。

6=池田(下が波止場)

56=向山(右上の丸くなっているところが「おてん崎」「まて島」はここの「字向山4769番2」である。

    以上のことは、深海支所の浦崎清秀さんに調べてもらったものです。