「和妙抄」に見える天草五郷(天草、志記、恵家、波太、高屋)の境界は知る由もないが、日本国内の資料とキリスト教などの資料により天草とは河浦町一町田を中心とする牛深市、と瀬戸を境界として南里の瀬戸より西ではないか、上平の「凶事浦」より北を考えてみると「産島」(神功皇后説のある島)、宮路の浦、「幣串」(へぐし)、御所浦町、宮野河内、小宮地、大宮地、大道、(中世前は大堂)高戸(戸とは、や、家、宅、屋などのこと)、姫戸、宮田など。高戸、樋島などは別名「上砥ぎ」(カミトギ)御所浦島、横島などは「下砥ぎ」(シモトギ)であり、「とぎ」とは、「うるし米」を水に一晩漬けて生のままを餅にしたもので、神のお供え用である。 総合して古代の「高屋」を想像することが出来る。 芥子の浦(ほうしのうら) 「芥子(方示?)」とは古代から中世までの村境の立て札のことで古い語である。天草五郷(古代~鎌倉以前)と言われた時代の名残ではなかろうか。 八窪(浅海の 内の原 越え) 地名語源には、平安時代の分割制(ぶわりせい)の跡とされ「白木河内」「一町田」その他にも同じような地名があり、内の原村(77石96升)が久玉村に属していない時代「八窪」は内の原の海の玄関口として付近の往来は繁盛していたであろう。 鬼塚(その1) 「鬼塚」とは古墳のことで、「鬼塚」の地名は天草全島に十数箇所あってほとんど発掘されている。 畑尻(ハタケジリ→波戸の迫の手前)の川崎達弥氏所有の「鬼塚」は、もともと東多々良の区有地であったが鶴長源吾のものとなり後に川崎家に譲られたものである。 「もともと石積みしてありましたが、次々と開墾してしまいました。」 とは川崎氏の叔母さんの話である。 鬼塚(その2) 向山古墳は「なこま」の恵比須さんのすぐ上にあり隼人族の墓とされ天草史の中にも見いだされる様になったが、その付近やそれ以外にもあるものと思う。「向山古墳」は、「産島」か「長島」の石を用いて作られた石棺である。 水道(ミド 下平) 「御堂」があった所と伝えているが、お寺の「御堂」のことか、切支丹の「教会跡」か、深海には切支丹のことは何も伝えていない。口にするだけでも恐ろしいことであるし天草の乱当時の深海の人口は極端に少なく、伝える人すらなく現在に至っている。 「水道」の住人であった西川家に伝わる話では、 「久留を目的にして御堂まで来たとき、ここら辺りがよいのではないかと二人の兄弟はそこに居着いてしまった。」 と鈴木代官の移民政策と合致する話を伝えている。 宮之前 現在の向かえの真珠会社の隣の畑が山と接している所に一段高いところがある。ここに祠があり、御神体は石で刻んだもので、鹿児島県の川内市の「新田八幡宮」の境内に祀られている。 天草の乱後の深海への移民はほとんどが川内川の流域と薩摩半島の人達で、深海への引っ越し荷を届けた帰り船でこの神を持ち帰ったのであろうか、この船の舳に載せたところ舳ひいて(舳に船足が入り過ぎて)船が前になかなか進まなかったという。なお、「御手ケ崎」の地名はこの神に付随する地名であろうか。 文納が迫(もんのうがさこ) そのころの人は、上納(今の税金)を「銀」で納めたのである。大江や高浜にも「銀納」の人の名前が記されており、船津崎のこの迫にも「銀納」の人がいたのであろうか。 文納迫は、鶴長一義、鶴長熊造両氏の住宅のある迫である。 深海には、戦前のころは税金の納期前になると係りの者が大きな声で、 「出文持ってこんばんぞ、明日までぞ」 と触れ歩いた。 十五夜どんの角力と共に南薩摩地方に昔から伝わるもののひとつである。 塞の神の迫(しゃんかみのさこ) 「塞の神」は「馬頭観音」を祀ったり、いろんな形があり村によって違う。悪病から村を守るために立てられたもので普通村の入り口にある。天草島原の乱によって破壊されたものであろう。 船津山の恵比須さんの中に首のない地蔵さんがおられる。この地蔵さんも恐らくこのときのものであると思われ、恵比須さんは後世のものである。 |