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3-1牛深市の地名(その1)
 牛深とは「潮は深し」の意味で、古代の「潮」は「牛」と言う字で全国に統一されているような感がある。
 岡山県牛窓市(潮は転「まろぶ」と言うことで、潮流の早い事である。)
 鹿児島県垂水市牛根境港(牛深市同様養殖業の盛んなところである。)
 鹿児島県阿久根市牛の浜
佐賀県の牛津
千葉県九十九里浜牛込
茨城県霞ヶ浦牛込
 
など潮との関係を語る地名である。
 牛深の現在の形は元保5年(1692年)庄屋松岡正續の頃、鬼塚(牛深小学校)付近の埋め立てにより「岡」と「船津」が地続きとなり、天草の乱後の幕府の移民政策により現在に至ったものである。

【 肥後国史 】
  牛深村   石高   186石9斗2升6合
          カマド    75
          男女   999人

 「此処ヨリ久玉ニ一里、茂串一里、宮崎ト言フ小村アリ、小川二筋アリヌ茂串ト云フ小村アリ、茂串ヨリ下須ニ海陸トモニ一里」
とあり、茂串村と宮崎村が記され、その他「下須村」「天附村」が在ったことが想像できる。「大島」と「花(カ)島」は、江戸時代には久玉村が支配した事が肥後国史の久玉の項に誌るされ、伝説として「方ケ島」が久玉領であった事が伝えられている。
 大島 →形として「大きな島」ということは見て判るが「人の住む島」の事である。
 花島 →(カシマ)「赤島」の転訛で、「赤ちゃん」も赤いからではなく、「垢」(アカ)も同様自分のものだと言うことを誇示した表現である。
 黒島 →境界の意味で「畔」(アゼ・クロ)の事である。下平の「黒崎」、浅海の「黒崎」も同様、「村境」の事である。
「黒島・赤島」の地名は、西九州に数10ケ所が見える。
 天草は古代から江戸時代末期まで紀州伊勢地方よりの交流が盛んであり、登立神社は紀州熊野神社の分神を祀り、牛深宮崎八幡宮は紀州和歌山県の有田市宮崎の上神社の分神であり、足利将軍義昭の寄寓した所で宮崎の地名もここから来たものである。なお、隣町河浦町の「古江大神宮」は、全国に「神社」と称するとろは多いが「神宮」は全国に23社しかない貴重な所である。之は伊勢の「皇大神宮」の分神である。正月16日には乗り継ぎの駕篭に頼らず、伊勢から人足と共に「通し駕篭」で来たと伝えられている。
 江戸時代の学者「本居宣長」の弟子で有名な高浜の「上田宜珍」も伊勢で学問したのである。
 このように古代から幕末まで紀伊との交流が盛んであったのは「水軍」によるもので、「熊野水軍」であり「紀州水軍」であり「九鬼水軍」であった。天草に下っては元寇の際の「大矢野種保、種村」兄弟となり牛深の水軍団は、深海と魚貫に「船隠し」の地名と、浅海に「竜宮社」の守り神を残したが、彼らは朝鮮、中国、東南アジアまで荒らし廻った。
 しかし、彼らの記録は何一つ残されていない。倭寇の出没した時代(1300年後半から1600年前半)である。「水軍」とは、海賊の水先案内人であり地域の豪族でありあるときは海賊である。

 天附 (あまつけ)

 「天附」の「天」は「海」の事で天草案内(大正13年・元田重男)によれば「海」(あま)「濡」(くさ)としている。植物の中にも(あまくさ)があり、「苓」と書き「苓北町」などの語源となっている。
 ウサギに食べさせるとすぐ死ぬとされている湿地の草である。
 「附」とは、「築く」などの意味で「海に築かれた島」とするのが適当であろう。
 和名抄による天草五郷とは、天草・志岐・高屋・波太・恵家の事で志岐以外はどこかは判定できない。
 天正9年(1581年)まで「天草郷」の「長島」は「島津義久」の領する所となり、それまで長島氏、天草氏、相良氏と替わったがこの年から「薩摩」となる。対岸の「蔵之元」との交わりが遠くなって行く。
 「下の倉」「上の倉」の「倉」は「崖」とか「座」の意味であり、深海の「倉の上」(くらのかみ)浅海の「千反倉」下平と宮野河内の境にある「倉置き」宮野河内の「高根」に「倉の浦」がある。なお、「小森」とは湿地の事である。