牛深とは「潮は深し」の意味で、古代の「潮」は「牛」と言う字で全国に統一されているような感がある。 |
| 岡山県牛窓市 | (潮は転「まろぶ」と言うことで、潮流の早い事である。) |
| 鹿児島県垂水市牛根境港 | (牛深市同様養殖業の盛んなところである。) |
| 鹿児島県阿久根市牛の浜 佐賀県の牛津 千葉県九十九里浜牛込 茨城県霞ヶ浦牛込 | |
など潮との関係を語る地名である。 牛深の現在の形は元保5年(1692年)庄屋松岡正續の頃、鬼塚(牛深小学校)付近の埋め立てにより「岡」と「船津」が地続きとなり、天草の乱後の幕府の移民政策により現在に至ったものである。 【 肥後国史 】 牛深村 石高 186石9斗2升6合 カマド 75 男女 999人 |
| 「此処ヨリ久玉ニ一里、茂串一里、宮崎ト言フ小村アリ、小川二筋アリヌ茂串ト云フ小村アリ、茂串ヨリ下須ニ海陸トモニ一里」 |
とあり、茂串村と宮崎村が記され、その他「下須村」「天附村」が在ったことが想像できる。「大島」と「花(カ)島」は、江戸時代には久玉村が支配した事が肥後国史の久玉の項に誌るされ、伝説として「方ケ島」が久玉領であった事が伝えられている。 |