どんくタイトル
2-9明治十年西南の役について
 【深海の徴用騒動一揆】

 その1

 明治10年(1877年)3月23・4日、
 「直チニ危険ノ場所ヘ使役ノ事ト心得」
 「戸長詰メ所ヘ多人数集合迫り」
 ※「事変日誌」増田伺書 ※石牟礼記録「徴用のがれ」(須崎口述)に詳しくある。
 この村は、16大区8小区で宮野河内戸長下であったが、特に漁民を漁船もろとも徴用されようとして、マテ島(馬刀島)まで来たとき、皆逃げ帰って来たことが明らかにされている。

 その2

 明治10年の西南戦争に際し、この村では、軍役で大忌避の騒動が持ち上がったが、沖合の馬刀島あたりで軍艦からの引き綱を切り、全船一斉に反転して逃げ帰ったという。
 以上が、天草史家達の記述されたものであるが、村民である私の意見を述べさしてもらえるならば、
鶴長伊喜治(私の父)の口述によると、
「前後のことはよく判らんし覚えてもおらんばってんが、ちょうど夕方の事、ホウジャ(蜷の一種)をぬぐおったりゃ(抜いでいたら)、あわてた母がウンもスンも言わんと儂(わし、俺)を背中にくくりつけ、『勝ケ迫』に向かって上り出した。恵比須さんの横を通るとき、後ろをヒョイと見ると『オ手ン崎』の内を真っ黒い煙を上げた、まだ一度も見たこともない大きな船が湾内に入りつつあった。次々に、『勝ケ迫んオド』に逃げてくる者が増えて来て、船津の浄土宗ん士たちゃお念仏を唱え、カンカンを持って来た人があり念仏を唱えながら『助け給え』とみんなで唱和した。アガン(あんなに)恐ろしかことはなかったばえ」 
と語ってくれた。
このとき、村の人々は「勝ケ迫」「古田ん田んぼ」(古田平の穴と言う意味)その他に集結して恐ろしさに震えていたと言う。
そのときの「真っ黒い煙を上げた大きな船」とは、船火事を起こして深海湾に助けを求めて入港中の火車船であったそうな。
須崎亀吉氏談
須崎亀吉氏の父「音松」は、八田網によって莫大な収益を得て大きな蔵を建てた。亀吉は、漁師の権化とでも言うか、天気予報に精通し、木の葉のざわめき、鳥の泣き声、雲の色、雲の大きさ、その速さ等そのすべてが天気予報の対象となった。
西南戦争のとき、「バッタリ船」、「藻取り船」10艘が徴収され、火車船に曳航された。途中、「馬刀島」まで来たとき、潮の流れが急だったため引き綱が2艘目と3艘目の間で切れてしまった。火車船は、切れた船をそのままにして走り去った。残った8艘の船は、引き潮のため流され、「椎ノ木崎」に流れ着きそのまま「浅海の浦」に入った。その時、恐ろしさのため逃げる気持ちになり、「板の浦」の「船がくし」に隠れた。
鶴田力三郎氏談(西南戦役の反論)
西南戦争の折りの事を世間話を交ぜながら
力三郎「わしゃあ、行ってからすぐ、ジュッチョウになってな」
川上「ジュッチョウちゅうとは、なんでござすか」
力三郎「5人の大将は伍長。10人の大将になれば、拾長でござすばな。人吉から日向越えば、米ばかたげてなあ、深海から20人ばっかり行ったばな」
このとき、浅海の橋本某は、2人分をかついで日給を2倍貰ったことなど話してくれた。
昭和13年の夏、彼は80歳を過ぎていた。

第16区85区(浅海郷一同)
 客年、県下擾乱之際、官軍ヘ草履(わらじ)862足、菜漬(なつけ)4樽、差出候。
 明治11年12月25日
 熊本県
 西南の役の際、口元某は、水先案内人として称賛され上司から「何か望むものはないか」と問われたとき、
 「はい、わしゃ紺屋町ちゅう所に、一晩泊まらせて下っせ」
と望んだ。紺屋町とは、女郎町のことである。容易いことと叶えられたことは無論のことである。