方面へ舳先を向けた。元禄5年(1692年)の頃である。 同じころ天草には日本人の食生活に光明をもたらした「さつまいも」の作付けも始められた。 江戸初期(鈴木重辰の石高半減まで)61石その内百姓40石、漁師20石の村高で「池田ん浜」から「大松」まで点在していた家は島原の乱によって深海の人家はなくなった?(中浦に少し残ったか。) |
① | 鶴長藤作さんの家から先(東の方)は、この家が建った頃は住家はなかった。(本人談) |
② | 「新町がた」と母が呼んだのは口元弥助宅付近一帯の事である。 口脇ケイ松さんの先祖が一番先に船津に来たと伝えられる事は事実の様であるが、懸念される事は飲料水の近いところをどうして先に選ばなかったか? 水に近いところは船着き場が遠いためか?などである。伝える人達も一足先に来た薩摩移民である。 |
西海の魚を取りまくった一部の漁師は北上して九十九里浜に走り、西海で蓄えた金、千葉の収穫を合わせて、 10万石の大名と並ぶ様な生活をしたと言う。 千葉と深海の漁師だけの共通点 |
一 | 服装は、男がシャツの上から腹巻き、その上には腰巻。船の型はサツマ舳(ニシ)でなく早舳。深海の船は江戸末期までこの型が多い。 |
二 | 言葉は、「夕まじみ」「朝まじみ」など共通点が多い。 |
三 | 苗字の牛深市と共通する点 深川(川端屋)岩佐(前市議)松尾(明治五年の牛深の漁師総代)浦木など、牛深と有田地方(和歌山)にだけある苗字である。 |
四 | 「ろばやし」(櫓)が同じである。 中農以下の百姓家では、 「かか(嬶)客人にゃ 田衣(タギヌ)ば きしゅかい、野衣(ノギヌ)にしゅうかい」 この会話はお客に着せる布団の事で、「田衣」は「稲巻」(いなまき)、「野衣」 は「苫」(とま)の事である。 |
恐らくこんな話をしたであろう。 村人に比べ漁師は綿製の地引き網を持参した。「ぶり網」「ひらしば網」は豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、蔚山で「ねむりの木」を使ったのが始まりで、恐らく小西行長の水夫を勤めた深海の漁師ではなかったか。 農作物も「鰯肥」(いわしごえ)を使用するようになり、収穫も倍増したであろう。 力が自慢のタネ女は、 平床びらから コーリヤ 十二で ぐーいぐい この唄は、 「私は、遠い平床からこんなにかついで来たんですよ十二把も」 と言う意味で、自作の唄を掛け声に墓場ん下を下る。いつも自慢の唄を聞かされる某女は今日こそやり返してやれと、 逆立ち したれば アラ 耳だけ耳だけ この唄は、 「お前の麦は、逆立ちして耳だけのものではないか何が重かろう」 と言う意味です。この頃はこんな作物しか出来なかった。 船津 四面海に囲まれた天草の島民は昔から海の民としての性格をもっていた。天領の頃の村の数は87、そのうちの60余の村が海に面している。ひとたび海に出ればイワシ・サバ・キビナゴと海の幸は豊富である。 正保2年(1645年)初代代官の鈴木重成は天草郡中に七ケ浦を定めおのおのの浦に「弁指」(べんざし)を1名ずつ置いて、漁民の管理に当たらせた。七ケ浦とは、富岡・牛深・二江・御領・佐伊津・栖本である。 万治2年(1659年)2代代官「鈴木重辰」は、父「鈴木重成」の切腹の嘆願によってなされた、4万2千石から2万1千石への課税。つまり「石高半減」を天草の漁民には2万1千石の内965石余と計算し、残り2万石を田と畑に課税したのである。同時にさきの七浦を十七ケ浦の「定浦」とし「定浦」には税額を割り当て、一定の数の人員の「水夫」(カコ)を置き、水夫は「弁指」に統率させた。水夫とは、公用武士の船便の運行に当たる人であり、定浦所属の者でなくてはならない者である。 深海は正徳年間よりこの定浦の内に加入されているが牛深浦の「子浦」である。 天草郡苓北町漁協所蔵の、 「安政3年(1856年)巳3月天草郡中《舸子 カコ》 (水夫)控帳」 によれば、次の様な数で天草海岸線を割り付けたのである。 天草郡中・浦高、及び舸子役人数 郡中総浦〆高 965石2斗6升8合 舸 子 299人 此内訳 富岡浦 183石9斗3升 35人 二江浦 4石9斗3升 17人 御領大島浦 121石2斗 17人 佐伊津 32石7斗5升8合 14人 楠浦 11石 10人 大島子浦 無高 5人 大浦 無高 2人 二間戸浦 12石9斗6升 3人 高戸浦 130石5斗4升 21人 2合5勺 大道浦 93石2斗6升 24人 御所浦 49石7斗8升 31人 2合5勺 棚底浦 無高 5人半 宮田浦 無高 5人 湯船原浦 9石2斗4升 5人 大多尾浦 5石9斗5升 5人 中田浦 5石 7人 宮野河内浦 無高 3人 深海浦 無高 2人 久玉浦 無高 2人 牛深浦 185石8斗8升 37人 崎津浦 16石5斗8升 31人 大江浦 4石5斗 1人 高浜浦 無高 5人 となっている。 「深海浦」は「牛深浦」に属し「久玉、宮野河内浦」と共に185石8斗8升を分担し上納しなくてはならない。海産物は長崎奉行所の直轄で、「煎海鼠」(イリナマコ)「干しアワビ」「ふかのひれ」「海藻類」が納められその外に深海からは、「干し鰯」や松の木の大割、つまり「うっぱなし」などが奉行所納めとなり米や銀が富岡代官納めとなっている。 天明5年(1785年)には奉行所より13人出役し、海産物(乾燥したもので俵ものと言う)の出荷督励のために郡中の浦々を廻り漁民が直接中国人と密貿易をせぬよう、同時に一般庶民には、なまこ、あわび、の食用も禁止し牛深には湊番所が設置された。 天草郡全部の漁師を支配する者を「総辨指」(ソウベンザシ)と言い、代々富岡町の「中元家」が之を世襲した。深海では現在の浜元與吉さんの屋敷が「べんざし屋敷」と言われ定浦、深海浦の辨指として浜元家が世襲し舸子の2名と共に下平、深海、浅海の海岸の権利をもち舸子の1名は山下家で公用武士の運行に当たっている。 1名は不明であるが、山下家の分家には川崎家(当主達彌氏)がある。 牛深の船津は、加瀬浦、真浦と共に別個の島であったが、元禄6年(1693年)「松岡正續」之を埋築して新田部落を作り現在のような地續きとした。昔、「潮深」(ウシオブカ)が転訛して「牛深」(ウシブカ)となったと言うが、日本の地名は「潮」(ウシオ)を「牛」としたところが全国に多く、転訛したものではない。 牛深八幡宮は牛深町字宮崎に在り、寛永の乱(天草島原の乱)に際し旧記焼失したが、往古「紀伊之国宮崎八幡宮」を分靈勸請したから宮崎の地名が生じた、(天草案内・大正13年発行)とあり、和歌山県有田市宮崎の事である。牛深の瀬崎と船津が地続きになった元禄6年(1693年)頃、紀州海岸漁民の間では西海(五島・天草)には鰹や鰯の多いことが伝えられている。 沖は鰯で 櫓櫂(ロカイ)が立たぬ 灘はカツヲで 通られぬ こんな唄が流行し漁民は二つの経路で西海に向かった。瀬戸内海を通った組と、四国土佐沖を通った組である。 牛深には明治初期まで湯浅、深川、浦木など紀州海岸と同じ姓の人が多いのはこのためであろう。 須崎文造翁(文久生まれで昭和38年没)によれば、櫓こぎの唄は「松坂節」(伊勢立頭)が一番よく唄われたとし、紀州方面海岸と一致している。 今の様よりゃ 昔の様女 見ればよかばな そわずとも エッシンヨイ エッシンヨイ こんなふうに唄い廻して、カツオ船の櫓を漕いだと言う。その他の漁師の使う言葉に共通点が多い。 朝まじみ、夕まじみ、 あか(船底に溜まった海水) 一抱(イチボ・25尋)の規定 とか、陸上の「早馬」に対しての「早船」すなわち型が「早にし」等共通点が多く紀州系の漁師であることを物語っている。 古代から黒潮によって紀州と天草のルートは結ばれ、紀州からは京文化の香りと漁法・鰹節製造法・紀州地方の農業の中枢である蜜柑をもたらしたのである。深海で使用されている飯胴甕(ハンズガメ・炊事用の水を入れておくための甕)の中に紀州に近い信楽焼きを見ることがある。これも紀州と天草の文化交流の証しである。 幕府公用武士の足として、その「馬の役」、「駕篭」の役を義務づけられた船津の「辨指」は権利として下平の黒崎から浅海の黒崎までの海岸の漁業権を得たのである。 浅海の「船津」の地名は天草の乱以前のものとして過去の歴史を物語り、今後も研究せねばならぬ課題である。 「船がくし」の地名は明治10年、一時船を隠した場所ではあるがこれ以前のものであり下平には船に関係した地名はないまでも下平の湾のひと隅に「しかま」と言う地名があり「漁場」(リョウバ)の事である。 |