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2-7深海の人口の推移
 正和2年(1313年)数少ない天草の地名の中に「深海」の名が出て来る。
 河内浦(一町田)、高根(新和町)、宮地浦、宮地、大多尾、亀川、本砥、沢張(不明)、鬼池、釜牟田(不明)、志岐浦、志岐、袋(富岡)、産島(宮野河内)、深海である。上島には大浦、須子浦、上津浦、栖本、御所浦島、獅子島である。
 鎌倉時代の深海は付近の村々に比べて田畑の少ない村であったことは充分に伺い知れる事であるが、ここに記される地名の箇所には城があるが、深海には城と関連のある地名さえも残されていない。唯、「六郎次山」のことを「しばんとりのおど」と言ったくらいで、「とり」とは「砦」の事である。場所として、城址と考えられる個所は、船津山、殿山、徳勝寺の場所、鼻屋敷等であるが、この時代の天草中で一番の良港は「深海」である。田畑はなくても水軍の根拠地としての「深海」は十分成立する。
 天正15年(1587年)豊臣秀吉の島津征伐には川内川で天草水軍が活躍している。小西行長の時代は朝鮮の役で水軍が活躍した。この時の小西行長の水軍の攻撃用の大鼓が未だ残されている。櫓漕ぎの囃子の言葉もそうであろう。
 「プーがどんどん、あい(り)まがよいよい」
と言うのである。「 法螺貝を吹け、太鼓を叩けそして櫓を漕げ」と言うのだ。専業農家は、恐らくなかったであろう事はこの期の村高によってはっきりしている。地図が示す天草氏の領土はキリシタンの栄えた領土でもあろう。
 天正16年(1588年)天草は小西行長の領土となり、深海の切支丹は天草氏の支配から、小西氏の支配する所となりますます切支丹信者の住みよい所となった。
 天正19年(1591年)には、一町田に天草学林(文法学級)3年、哲学と古典文学学級3年(一般教育課程)、神学4年(専門課程)の10年制の大学が設立される。九州本土から学校をたずねる人は、深海・下平の海を利用したはずである。天草の海岸線で帆船が最も出入りしやすい港は深海の港で昭和の初期までこの付近を航海する帆船の泊まり所であった。 
 天草の領主でありキリシタンの手厚い保護者であった小西行長が亡び、 慶長5年(1600年)、慶長6年(1601年)天草は肥前唐津の領主「寺沢志摩守」に与えられる。このような過程で天草島原の乱に至るのであるが、天草南部の船人の中心が深海と考えられる。
 寺沢領の頃は天草の総人口2万5千人、石高4万2千石、浅海、下平を除く深海の石高は61石、約70分の1である。61石の内20石は引き綱(網)となっている。
 天草島原の乱後の天草の総人口は3万人とされ、乱に参加した者の内で戦いのできる者9千人、女子供(非戦闘員)5千人とされ合計1万4千人が海を渡り島原勢と合流する。しかし、何処の村から何人参加したかと言う記録は残されていない。ただ、西目(大江・高浜・富津)方面からは出陣していない。
 久玉・牛深・魚貫も参加していないであろう。一町田も信福寺の関係は不参加、とすれば深海・下平の人々は殆どが参加し、天草には人の種がないと肥後・薩摩の人が評判したのはこの頃である。島原の原城の攻防戦についてはいろいろな書物に記されているが一揆の総勢力3万7千人は一人も残る事なく斬首された。
深海にも僅かばかりの老人が残ったであろう。
 けれども歴史を伝え、習慣を教える者もなくなり村は荒廃した。参加する人のなかった村には、虫追いの行事が伝えられ、村祭りの大名行列、虫追いの行事が残されている。深海には、十五夜を大事にした川内地方の風習十五夜角力が残されている。
 乱後深海は、薩摩よりの移住者によって現在の浦河内、中の迫、東、多々良、舟津と大体の形が作られて行く。そして浅海、下平、深海と合併する。合併前の記録によると、
 正保3年(1646年)
   深海   田畑(その他)   60石
   下平浦    田畑(その他)  126石
   浅海   田畑(その他)   52石
 万治2年(1659年)
 126石、これは天草代官鈴木重成の割腹による石高半減の願いによるもので4万2千石が2万1千石になった為である。
 文政初年(1818年)の調書では169石4斗1升7合5勺となっている。
 鈴木重成は切支丹絶滅の為に仏教を奨め、實兄、正三和尚をして布教し百姓は一鍬一鍬に念仏を申すべきものなりとし、深海の村民は常に信心が深く他村では再三不穏な動きがあったけれども名実共に昔から波静かな不平のない村であった。
 寛政15年(1638年)   山崎家治領主となる
 寛政18年(1641年)   天領・代官鈴木重成
 承応 2年(1653年)   石高半減を訴え、鈴木重成割腹す
 明暦 元年(1655年)   二代代官鈴木重辰着任
 万治 2年(1659年)   石高半減され2万1千石となる
 明和 8年(1771年)   大規模な百姓一揆
 天明 7年(1787年)   牛深村で打ちこわし
 寛政 4年(1792年)   雲仙岳の大爆発
 文化 2年(1805年)   隠れ切支丹発覚
 文化 7年(1810年)   伊能忠敬深海に上陸す
 天領としての深海は、途中隠れキリシタン1名を出したが、何一つ事件の無い村でもあった。
 当時、伊勢参りと本願時参りは年寄りを通じ、久玉の大庄屋「中原家」から、「天領民札」(てんりょうみんふだ)を貰えば旅行ができた。
 百姓でも、「天下百姓」として扱いは丁重で関所も簡単に通れて、島津、細川その他の諸大名の行列に街道で出会っても、深海の百姓や漁師は土下座することを知らない、ポカンと立っていると、先触れの役人が身分をただして後、気の利いた役人は草履の緒を見る。「左編みの草履」、「天下百姓」は「足半」(あしなか)を履いたものである。
 天領時代初期の藤川氏は、深海の「一番桝」(一番の田畑持ち)で、東の迫の水田(旧郵便局から梅の木川までの横道から上は全部水田であった)の所有者であった。
 (私の想像では、藤川氏は、川内川の上流で薩摩郡東郷町藤川の出身ではなかろうかと思う。江戸時代前期の薩摩焼きの黒徳利が残っている。)
 深海の「二番桝」は橋口家で、薩摩出身(日本の苗字より)で同族に、薩摩の畫師「橋口五美」などもいる。所有田は、「多々良ん迫」「大松」に「三反三畝畦三鍬」といわれた「二俣」であり、又「海辺は尾根二俣に船繋ぐな」と言われ船人の嫌う所でもある。  「三番桝」は、不明である。
 「四番枡」は鶴長家で、「立葉ん河内」「矢の口」「波戸ん迫」を有した。
           (以上、故人父鶴長伊喜治より聞く)
 川内市の上流に、川内市永利町がある。そこに「鶴永」の姓あり出目は同じか。深海の「東多々良」の移民は全部が薩摩出身であり、(おりげが一番早かったばえ)とする「山崎家」は小さく分割して「中組」と言われた土地である。
 一番枡、二番枡とは上納米取り上高の順番である。