どんくタイトル
2-6木地師の由来書
 平安前期「小野宮惟喬親王」と言う王子がいた、文徳天皇の第一王子として生まれ、天皇自身も皇太子として考えていたにもかかわらず、藤原氏の専横から皇位につく事なく、比叡山麓の小野の里に隠棲し、詩歌風日を友としていたが、やがて僅かな供を連れて漂泊の旅に出た。そして「近江」の「小椋」の郷に落ち着いた。美しい奥方もその跡を追ったが、峻しい山路の為にその地に入れなかった。皇子はその地で没したが、生前山中の杣人達が自分に尽くした事を喜び彼らに「ろくろ」による木工を教えたと言う。
 また、京都から供奉して来た藤原実秀に「小椋」の姓を名乗らせ、木地職の集団の棟梁として「諭旨、由来書」などの写しを持たせ全国に其の職業的権利を行使したのである。
 家紋に高貴の人だけが使用する「五七桐」を使用した「轆轤師」達はどんな樹種を求めたのか、ホウノキ、メムノキ、桜、楠、山桑の木、ツバキ、コウカノ木、等である。
 木地師が作るものは、船の滑車、家の階段の丸てすり、椀、盆などである。
 各村の本百姓、
     牛深     75戸
     魚貫     18戸
     深海     43戸
     久玉     43戸
     二浦     41戸
 これらの家々には必ず法事用のお椀やお膳が、縦横約1米、長さ1.6米の櫃に生活必需品として用意されていた。これは全部木地師達の手によって作られたものである。木地師達の住んでいた地名の一部を挙げると、
     滋賀県蒲生郡東桜谷村轆轤師
     富山県小矢部市子撫、六郎谷
     石川県江沼郡山中町、六六師(ろくろじ)
     愛知県北設楽郡稲武町桑原、六郎治
     福井県大野市坂谷、六郎師
     和歌山県東牟婁郡明神村、六郎山
     徳島県三好郡西祖谷村、轆轤
     熊本県八代郡東陽村、鹿路(ろくろ)
 こんな「ろくろ」地名だけを残して、ろくろ師達は何処ともなく消えていったので ある。
 路木と六郎次の地は慶長5年(1600年)後の村割りによって、「路木村」(村高37石)となり現在河浦町となっている。路木の隣接部落に主留、久留がある。「主留」の「主」は神であり「久留」は「久留子」、即ち「クルス」で十字架の事である。
 キリスト教徒が十字に花をあしらい、草をあしらいして隠れキリシタンの紋章としたことを言うのであるが、圧制の過去を伝える地名として付け加えておく。
 六郎次の山中を住居とした人々の姓名は民族史上、「小椋」(おぐら)と「大蔵」の二家のうちどちらかで、いずれも「惟喬親王」を祭神とし、「藤原実秀」を祖とする一族であった事は否定できない歴史上の一つの流れであるが、この「大蔵」の姓を名乗る人が天草の地頭職となったのである。
 肥後国誌、当郡往古代々ノ領主等、末考之、天草記ニハ、
 「天草一島五分ニシテ両氏ヲ立、一ヲ志岐ト云菊池氏ナリ、一ヲ天草ト云大蔵姓ナリ、三分ハ天草末考ナリ、一、上津浦志岐氏、上津浦氏、大矢野氏、栖本氏ナド分類スト見エタリ。」
と。天草氏はこの木地師の棟梁だったのである。菅の伝説に言い伝えた「五ケ荘」からの移住者、所々に残された「山城」に関する地名などが、歴史上に理路整然とするのである。まさに地名は生きた歴史である。