深海町と河浦町「路木」の境界にある山で、標高405米・下島第一の眺望を誇り、昭和6年(1931年)東京帝国大学の「地質学教授、工学博士・脇水鉄五郎」氏などの実地踏査により、「下島大観山」と名付けられ、国の名所に指定された。 脇水氏は、足が少し不自由な故もあって、路木青年の前後左右、4人で担ぐ神輿籠に乗り、頂上では深海小学校の児童が迎える中を、悠々と四方を眺め賞賛され脚光を浴びたのである。 古代よりこの山を「芝ん鳥のおど」と呼んでいる。野生の姫百合、桔梗が咲き乱れ、陽炎の燃ゆる萱野は、北に雲仙を望み、南に遠く長島を眺め、水俣駅を南に向かって走る汽車の煙の見えかくれに、奇異の眼を向けたものである。 六郎次の山中に、「芝鳥」(しばんとり)「柴ん鳥」と地図の中にある。この二つの小字名は何を指したものであるか。 地名は先ず、呼びならしが先行し、其の後に文字が出来て地名に当てはめたのであるが、「芝ん鳥」とは何の事であろうか。各村々に残る「しば」の地名は古代語の「集落」の事であろう。 宮崎県の「椎葉村」が代表するように、深海にも「椎の木平」(しいのきじゃら)「椎の木崎」などがあるように、この「しばんとり」とは、「椎葉への通り」の事である。「椎の木崎」に縄文時代の集落遺跡と「まちのとり」(田へ行く道)の呼び名(地名)を残している山の峰がある。 六郎次の「芝ん鳥」を北へ峰づたいに約500米行くと、また「柴ん鳥」と六郎次の小字が隣接している。「鳥」とは「通り」の場合と「砦」の場合がある。ここでは、無論後者の事である。 六郎次の事を「シバんとり」とも喚んだ此の集落は、中世期の「ろくろ師」「木地師」とも呼んでいる「そま」人達の遺跡である。 全国70ケ所に「ろくろ」の地名を残している、「ろくろ師」とはどんなものだろう。 「呂木」(ろくろ細工のお椀や、お盆などの材料)を求めて、山々を漂泊する山のジプシー達の事である。 日本列島の端から端まで、それこそ、東は駒の蹄の通うほど、西は櫓かいの立つほど漂泊の旅を続けて来た集団があった。木地を求めて親子二代の間に、24ケ所も移動した例も報告されている。彼らは日本列島の70パーセント以上を占めていた山岳地帯を、「ろ木」(河浦町の路木も同じ)を求めて「ろくろ」を携行して家族全員移動と定着を千年以上も繰り返し続けて来たのである。そして彼らは、全国どこの山でも、その7合目以上の樹木は自由に伐採してもよいと言う職業上の印可書を持参していたのである。その文書とは、自分達の始祖が55代文徳天皇(在位850~858年)の第一皇子である「小野宮惟喬親王」(おんみやこれたかしんのう)であり、以来この自分達の職業のための原木を求めて全国各地を移動し伐採する権利と自由を許された由来書であり、「織田信長の諭旨」、「豊臣秀吉の印可状」なども持ち廻ったのである。その例を挙げると、 |