南北朝から戦国中期ころまでに、天草氏関係で史上に現れる人物は希少である。「天草大夫三郎」や「大蔵彌四郎種有」の外は、至徳4年(1387年)「天草三郎種世」なるものが、「詑磨文書」中に見えるのと、大永、享禄の頃、「天草弾正忠左エ門尉行盛」と言う者が「本戸城」に在ったという。 これによれば、天草氏がしばらく「本戸」を復したのであろう。 他には、わずかに永正年中(1504年)「宮地三郎・二郎」の名が「志岐文書」中に在るだけでその系譜は明らかでない。しかるに、天文元年(1532年)「天草氏中興」の英主というべき「天草尚種」が史上に現れる。彼はその卓抜な手腕によりいつの間にか、宮路氏、久玉氏を併呑し勢い強大となり宿敵「志岐氏」を北方に圧迫し、父祖の地である「本砥」を復するはもとより、下島の大半をその手に納め、上島においては、栖本、上津浦の二氏と境を接するに至った。即ち、本渡、亀場、志柿、下浦、楠浦、宮地、宮地岳、新合、一町田、福連木、富津、大江、高浜、下田、大多尾、宮野河内等を領する島内唯一の大豪族となったので、島入り以来このように強大となったのは初めてのことである。 当時、肥後の雲行きはどうであったかと言うに戦国以来「菊池氏」に昔日の勢威なく、国内は大小豪族の相攻伐に終始する状況で「大友氏」北方より遥かに南下してくると見れば、「相良氏」 も又南方より北上し薩摩の「島津氏」その跡を逐うて、長躯攻め入れば佐賀の「竜造寺氏」又負けじと南下するなど、大小豪族は昨日は敵、今日は味方と保身の策を講ずる有り様であった。 |