【 古代 その1 】 天草には古代は人が住んでいなかったのではなかろうか?、 と考える人もいたが、昭和32年(1957年)沖の原(二江町)に、大きな貝塚が発掘され何千年の昔から天草には人間の営みが続けられていた事が立証された。
天草とは古来、上島・下島・大矢野島・長島の総称で、古代には「天両屋」(あまのふたや) と言い深海の対岸の長島もその頃は天草であった。その後、昭和37年長島の「蔵之元」「小浜崎」「白金崎」「鬼塚」の各古墳が発掘調査された。発掘された主なものとして、
金 環 ( 2)
銀 環 (10)
水晶切子玉 (15)
刀の把間部分
等である。
しかも、盗掘された後のものがこれだけ発掘されたのである。
これらの物は、5世紀のもので鹿児島県にも天草にもこれだけの副葬品は出ていない。恐らく「被葬者」は、牛深海峡一帯か或いはそれ以上の地域の支配者層と考えていいだろう。
と、 言うことでその系譜はまだ解明されていない。
【 古代 その2 】
天草全島に「鬼塚」と言う地名が十数箇所知られている。それぞれ時代の要求で発掘調査したけれども、深海の「鬼塚」→「破戸ノ迫」、下平の「鬼塚」も知らない人が多い程で、手もつけられていない。しかし、宮野河内「上平」の「上原古墳」、河浦町富津の「鬼塚古墳」はすべて発掘されている。深海の「鬼塚古墳」下平の「鬼塚」もこれからの時代に期待したい。
聖武天皇の時代、天平15年(743年)奈良の大仏を建立され九州に鎮西府が置かれた翌16年の5月、八代、葦北、天草に雷雨と地震による大被害があった。
郡の中央官舎をはじめ290町の田、470余戸の民家と、1520余名が洪水による被害を受け、死者40名が出たので時の朝廷は救助の手を差し伸べた。この時の記録が中央に残されている最古の記録である。
天草の人々は太古より眼前に広がる水平線の海の涯には、アジア大陸があることを察知していた。
宝亀9年(778年)11月遣唐使船が天草郡「西仲島」に漂着し、遣唐使副判官「大伴宿禰継人」ら41人が息も絶え絶えに上がって来た。「仲島」とは「長島」の事であろうか。
貞観15年(873年)の夏7月には、渤海船一隻が「肥後の国天草郡」に漂着太宰府から派遣された通訳が取り調べ、乗組員「崔宗佐」らの日記や外交文書、弓、剣などを押収して朝廷に送り届けた。
【古代 その3 】
平安時代の中頃(和名抄)と言う本が作られた。10世紀の初めのころの事である。
天草郡の中に(波多)(天草)(志記)(高屋)(恵家)とあり五郷になっている。「志記」が現在の「志岐」でその外は判明していない。「天草」と「長島」とを合わせた村々が五郷になり「深海」はその中の何処に属した事であろうか? 恐らく永久のなぞであろうか。この時代の地名だけが多く残っている。
「なこま」のえべっさん(恵比須さん)の上にある古墳は恐らくこの時代の人であろうか?
使用されている石は深海の石ではなく、長島か、産島の石である。
「なこま」には「魚見の松」(突端にあったが松食虫で枯れた)の上付近には古墳らしいものが昭和初期まで見られた。