どんくタイトル

2-2 深海の地名(その2)
 深海の古代を知る文献、古文書はないが地名がわずかながら残る。
穴の口 → 穴の尾
穴とは穴居生活者の人家を示し、穴があるからとは間違いでそれは、「洞」である。
石塚の迫(東区)
古代の何かの塚であろう。
京泊浦(きょうどまんのうら)  
向かえにある。船の非難箇所を示すものであり鹿児島県の薩摩半島と獅子島と長崎県に一ヶ所、その他にもあるらしい。
剣崎(下平)
大剣(おおつるぎ)子剣(こつるぎ)と言う以上、古いといわねばなるまい。
なこま
静かな海を意味し久玉町の「なこら」水俣の「名護」肥前の「名護屋」愛知県の「名古屋」とも皆意味はおなじである。
菅(下平)
古代「おん菅領地」(おんかんりょうち)を示し「スガ」「スゲ」が語源で通路の中心地である。今は草木に覆われているが、四方に山道が延び深海一番の広い道で、江戸時代中期まで繁盛した。付近に「城下」(2・3町歩)また「屋敷ン窪」等の地名を残している。
鬼塚(仏教以前の墓所)
深海の「波止ン迫」の手前で、「明治の中頃まで、石を積んでありましたが開墾してしまいました。」とは、持ち主の川崎達弥氏の叔母(故人)の話である。
鬼塚(下平の向辺田のも鬼塚の地名あり)
注:
古代の深海地方の支配者は、長島海峡・牛深市管内を含めて長島の蔵之元の「小崎浜古墳」と「鬼塚古墳」の副葬品からして、支配者層と考えられるが、系譜については解明されていない。
芥子(ほうし)の浦
「芥子」とは、村境の立て札のことで「芥子の浦」から先、「椎ノ木崎」から「板の浦」まで、一時長島氏の支配があって「芥子の浦」と言う地名が残ったのであろう。
八窪(浅海区)
平安時代の分割(ぶわり)制の事。白木河内、一町田、富津にもある。
十一
下志良(げじら)下平区
語源の「志良」(しら)とは、湿地の事の意味で、必ず付近に田がある。
十二
六郎次
民族史の中で木地師(きじし)の事を知り、「六郎次」もこの集団部落の跡と思い、滝下巌君(田の所有者)に民家の跡と思われるものはないかと聞いたのは15年も前のことであった。それから2年後、滝下君は民家の跡があるのを確認してくれた。なおも追求して行く中に、明治初年まで深海に地引き網に来ていたことも判明した。
木地師(轆轤師・ロクロシ)達の故郷は、滋賀県の「永源寺」である。
六郎次は古来から「芝ん取りのおど」と言われ、北側が「ろくろじびら」と伝承され「六郎次山」と言われ出したのは、昭和の初期の地質学者「脇水鉄五郎・工学博士」氏の視察後のことであるが、大正期の小学校の校歌の一節にも、
     深海湾志雲のその中に
     姿を現す 六郎次山
とある。このころから小学生等が六郎次山と言い出したのであろう。
十三
水道(みど)
お堂があったと伝えている。が、果たしてお寺のお堂の事か。切支丹の教会跡か、天草島原の乱前後はかなりの人家が点在したものと思える。
「水道」に長い年月住んだ西川家に伝わる話では、「久留」が目的であったが此処らが良いのではないかと兄弟が居ついてしまった。と鈴木代官時代の移民政策と合致する話を伝えている。
十四
宮ん前(みやんまえ)
現在の真珠会社の隣の畑に一段石垣の高い所は宮があった所と伝えられ、いつの頃からか川内市の「新田八幡宮」の境内に祀られている。
十五
しかま
下平に「しかま」と言う地名が残っている。「干潟」の事である。今の小学校の下付近である。

 近代史の中における深海の地名
文納ケ迫(もんのがさこ)
上納米を銀で納めた迫の意味で、天草には大江村や高浜村にも銀納の人の名が記されている。現在の故鶴長熊造氏等の住む迫である。
塞の神の道(しゃんかみのさこ)
「塞の神」は何であったか不明だが「馬頭観音」を「塞の神」として祀ってある部落、その他の神々を「塞神」として祀った部落もある。天草島原の乱時のキリシタン宗徒によって壊されたものであろう。「塞の神」とは病気の神と悪魔を防ぐ村境の「砦の神」と言う意味である。

 箕作りのサンカ

 民族史の中で「木地師」の事を知ったのは17、8年も前のことである。それまで、「三角寛」の「サンカ小説」の影響で「箕作」(ミツクリ)の資料を漁(あさ)ったが何処の図書館でも探すことは出来なかった。
 深海に冬の時期になると必ず一組の夫婦の「サンカ」が訪れた。殿山(ドンヤマ)の熊笹と下平の「黒崎」辺りのへごで「茶碗がえ」と呼ぶザル作りの好材料があったのである。桜の皮と竹と柳の木を折り曲げて作った彼らの「箕」(ミ・穀物の粒をより分け、また殻や塵を除く農具)は昭和10年頃で10数円だったと思う。私の家に「柏木武助」と呼ぶ人がいた。誠実な人柄で一般の人には考えられないことをして見せて私を驚かした。
青竹を切って釜にして飯を炊く。
竹のお椀にみそを溶かし、山菜を入れた後焼け石を入れる。最高のみそ汁だ。
冬枯れの谷川に入り大きめの石を、テコで一挙に落とし込む、すると冬籠もりのウナギが時には数十匹も手づかみに出来た。
水に浸したタオルをたき火で暖めて体を拭く、壮快そのものだ。バケツのない山中ではよくこれをやった。
走るともなく歩くともない彼の走法は毎日天草町のナベンタ山まで通いつづけ一日の仕事前の日課として半年も続けた事である。「菅」から「ナベンタ山」まで往復十数里の山道を彼は野犬の臭覚と言おうか村人の知らないような道まで知り尽くしていた。信じられないような事実である。
 以上のことが私の知る「サンカ」である。
 我らは純日本人とする「サンカ」と、我ら天皇の血を引く最高の日本人だとする「木地師」は対照的である。この「木地師」の集団が「六郎次」の後ろ側の八合目の所に部落を作ったのである。
 私は「木地師」の集落の条件にぴったり合致する事を知り、「木地師」の故郷である滋賀民族学会に指導され、「六郎次」の地名が「木地師の里」であることを確信した。私はこれだと思い現在この辺を耕作する滝下君に「家の跡」と考えられるようなものは無いか気をつけてくれるよう依頼した所、翌年帰省したとき返事をしてくれた。
 「便所を掘ったと思われる箇所、茶碗のかけらなどが見つかり十数軒が存在したのではないか」
と、「木地師」とは「轆轤」(ロクロ)を回して木製の椀を作ったり、船で使用する滑車を作ったりする人達で、先祖を滋賀県の「君ケ畑」を故郷とする集団の人達である。六郎次の頂上からいさり火を眺めながら、
 「今夜は地引き網のあるばえ、はよ下って見ゆわい」
と、言って漁師たちと交流のあったであろう木地師達。明治初年まで在った人家も今では一軒も無くなり存在したことさえ知る人がいなくなった。
 現在、各地に在る木地師たちに関係のある地名を拾ってみよう。
滋賀県蒲生郡桜谷村大字奥ノ池字轆轤師(ロクロジ)
滋賀県蒲生郡桜谷村大字ロクロシ
愛知県愛知郡東小椋村大字政所ロクロ山
愛知県愛知郡東小椋村大字九居瀬ロクロ谷
滋賀県以外にもロクロジ山、ロクロジ谷と呼ばれる木地師の里が70ケ所以上もある。
 では、深海の「六郎次山」はいつのころから「六郎次」と言われるようになったかは不明であるが、明治の人はこの「木地師」たちの住む一帯を「ろくろじ平」(ろくろじびら)と、言い伝え、山を「シバントリのおど」と伝えた。「トリ」は「通り」の事であろう。
 しかし、木地師たちの住んだ土地であることを知る人が少しずつでも増えることは嬉しいことである。
 木地そのままの何も塗ってない「御器」(ゴキ)で、飯のおかずに「醤油の實」(ショウエノミ)をすくって「サイサイ」と手渡しした叔母(オノシ)の顔が思い出されるのである。この椀も恐らく六郎次の里で作られた椀のひとつであったろう。
 この里から「路木」の部落に下った「出永一家」も木地師たちに最も関係の深い滋賀県の永源寺の「永」を取ったものであろうなど考えるのであるが考え過ぎであろうか。

 その他の地名

【小字「板の浦」(イタノウラ)】
 「板」とは、大阪の「吹田」(スイタ)福岡の「板付空港」(イタズケクウコウ)河浦の「板の河内」(イタノカワチ)などがある。
この浦に、「船がくし」(船を隠す)があり、「倭寇」たちが残した地名の遺産でありまた、「倭寇」の守り神である「竜宮社」がある。土地の人は「じゅくさ様」と呼んでいる。
吉川 竹光
西成区鶴見橋2-8-1
折口  考
和歌山県西山口郡串本1735-28
【椎ノ木崎】
 「椎」(シイ)は、「飯」(イイ)の事であり、「干飯」(ホシイイ)は「飯」(めし)を干した〈乾燥した〉ものである。「強飯」(コワイイ)とは、「餅」を杵で搗く時の「飯」(めし)の状態にあるもの。など、「椎」は「飯」の変化したもので、九州南部天草の各村に多く点在している。
【「椎ノ木平」(シイノキジャラ)「椎ノ窪」(シイノクボ)】など
 これらは、部落と水田を意味し、深海の「大松」(ウマチ)を「椎」としたその先(崎)の事である。