箕作りのサンカ
民族史の中で「木地師」の事を知ったのは17、8年も前のことである。それまで、「三角寛」の「サンカ小説」の影響で「箕作」(ミツクリ)の資料を漁(あさ)ったが何処の図書館でも探すことは出来なかった。 深海に冬の時期になると必ず一組の夫婦の「サンカ」が訪れた。殿山(ドンヤマ)の熊笹と下平の「黒崎」辺りのへごで「茶碗がえ」と呼ぶザル作りの好材料があったのである。桜の皮と竹と柳の木を折り曲げて作った彼らの「箕」(ミ・穀物の粒をより分け、また殻や塵を除く農具)は昭和10年頃で10数円だったと思う。私の家に「柏木武助」と呼ぶ人がいた。誠実な人柄で一般の人には考えられないことをして見せて私を驚かした。 |
一 | 青竹を切って釜にして飯を炊く。 |
二 | 竹のお椀にみそを溶かし、山菜を入れた後焼け石を入れる。最高のみそ汁だ。 |
三 | 冬枯れの谷川に入り大きめの石を、テコで一挙に落とし込む、すると冬籠もりのウナギが時には数十匹も手づかみに出来た。 |
四 | 水に浸したタオルをたき火で暖めて体を拭く、壮快そのものだ。バケツのない山中ではよくこれをやった。 |
五 | 走るともなく歩くともない彼の走法は毎日天草町のナベンタ山まで通いつづけ一日の仕事前の日課として半年も続けた事である。「菅」から「ナベンタ山」まで往復十数里の山道を彼は野犬の臭覚と言おうか村人の知らないような道まで知り尽くしていた。信じられないような事実である。 |
以上のことが私の知る「サンカ」である。 我らは純日本人とする「サンカ」と、我ら天皇の血を引く最高の日本人だとする「木地師」は対照的である。この「木地師」の集団が「六郎次」の後ろ側の八合目の所に部落を作ったのである。 私は「木地師」の集落の条件にぴったり合致する事を知り、「木地師」の故郷である滋賀民族学会に指導され、「六郎次」の地名が「木地師の里」であることを確信した。私はこれだと思い現在この辺を耕作する滝下君に「家の跡」と考えられるようなものは無いか気をつけてくれるよう依頼した所、翌年帰省したとき返事をしてくれた。 「便所を掘ったと思われる箇所、茶碗のかけらなどが見つかり十数軒が存在したのではないか」 と、「木地師」とは「轆轤」(ロクロ)を回して木製の椀を作ったり、船で使用する滑車を作ったりする人達で、先祖を滋賀県の「君ケ畑」を故郷とする集団の人達である。六郎次の頂上からいさり火を眺めながら、 「今夜は地引き網のあるばえ、はよ下って見ゆわい」 と、言って漁師たちと交流のあったであろう木地師達。明治初年まで在った人家も今では一軒も無くなり存在したことさえ知る人がいなくなった。 現在、各地に在る木地師たちに関係のある地名を拾ってみよう。 |
一 | 滋賀県蒲生郡桜谷村大字奥ノ池字轆轤師(ロクロジ) |
二 | 滋賀県蒲生郡桜谷村大字ロクロシ |
三 | 愛知県愛知郡東小椋村大字政所ロクロ山 |
四 | 愛知県愛知郡東小椋村大字九居瀬ロクロ谷 |
五 | 滋賀県以外にもロクロジ山、ロクロジ谷と呼ばれる木地師の里が70ケ所以上もある。 |
では、深海の「六郎次山」はいつのころから「六郎次」と言われるようになったかは不明であるが、明治の人はこの「木地師」たちの住む一帯を「ろくろじ平」(ろくろじびら)と、言い伝え、山を「シバントリのおど」と伝えた。「トリ」は「通り」の事であろう。 しかし、木地師たちの住んだ土地であることを知る人が少しずつでも増えることは嬉しいことである。 木地そのままの何も塗ってない「御器」(ゴキ)で、飯のおかずに「醤油の實」(ショウエノミ)をすくって「サイサイ」と手渡しした叔母(オノシ)の顔が思い出されるのである。この椀も恐らく六郎次の里で作られた椀のひとつであったろう。 この里から「路木」の部落に下った「出永一家」も木地師たちに最も関係の深い滋賀県の永源寺の「永」を取ったものであろうなど考えるのであるが考え過ぎであろうか。 その他の地名
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