どんくタイトル

2-1 深海の地名(その1)
 天草の歴史(郷土誌)の草分けである「天草案内」によると、北は宮野河内村に接し北方は連峰相重なって早浦村及び一町田村と境を交ゆ、而して東は海を隔てて鹿児島県の長島と呼応し、緑樹湾内に沿って風光畫く(えがく)が如し。全村山地丘陵からなり耕地は総面積の三分の一に過ぎない。
 旧庄屋は橋口家で、文政初年の調書を見るに
     米   169石4斗1升7合5勺
     家屋  487戸
     人口  3278人
とある。
 明治七年宮野河内と合併し村長は池田氏となり、白川県第16大区8小区となったが明治11年冬、独立区長を置き町村制実施を経て今日に至ったのである。
 大正11年部落有財産を統一して130町歩原野を提供し杉、桧、松の官行造林を施している。
  道路─大正2年、1里余りの村道(女淵線)を牛深線に連絡し、大正末期より下平・浅海線を工事す。 大正末期の村勢
土 地
 
 

宅地
山林
原野
その他
 計
1,009反
2,576反
  137反
2,017反
1,831反
    2反
7,572反
戸  数
人  口
郵便局
名 物
        660戸
      3,805人
      無集配局
      鯣、椿油、陶石等。 (以上「天草案内」による)

 下平

 「下平」の地名はごく新しく、明治7年から11年の冬まで「宮野河内」と「深海」は合併村であった関係で「上平」に対して「下平」になったのでしょう。
 慶長年間の神戸商船大学所有の「薩摩船旅図」に「富岡」と「本渡」と「中田」とそれに「広浦」の4ケ所が記されています。また、寺子屋時代に真っ黒く手習いされた一枚の用紙の片隅に、「広浦弥七」と書かれ、また深海の古い人は「ひろら」と呼んでいました。 久留、古江、路木、新合方面の当時海の玄関口だった様です。明治になり深海には役場が設けられ、本渡に郡役所が置かれると海の玄関口は深海に移行された。
 西のほうに崎津が書いてある。「平浦」(ひらうら)の対岸は本土になっており図も非常に稚拙であるが、湾内の奥深くに現在の「寺ン迫」と思われる所に人家が3軒並んでいる。すぐ下は海岸である。
 地図には描かれていないが近くには「鬼塚」があり古代からの集落であることがうかがえる。近くの「下志良」(げじら)からは「石の斧」も発見されている。(山下良水氏所有)平浦から(牛深も久玉も削除され)薩摩に向かって線が引かれている。何故平浦は港として重要であったか。
 それは、天草氏は外国との貿易を始めて富を得んとし其の手段として天草伊豆守鎭種は領民にキリスト教の布教を計った。なお一町田には良港として当時から崎津・軍ケ浦が有名であるが、戦国時代から江戸時代の船では夏なら別として、冬の東シナ海に面する「軍ケ浦・崎津」では入港・出港に無理で急場に間に合わないのである。そこで、内海の冬でも静かな「平浦」が良港として選ばれたのだろう。
 代々下平の土着と言える人があるだろうか、私の知る限りではほとんどの家が薩摩系の人であろうと思える。
一滝原家
深海の「鶴田家」が下平に所有している山林のほとんどが「滝原家」のもので、終戦直後まではまだ大きな墓が残っていたが今ではもう無い。鹿児島のどこかに係累がありそこに行ったらしい。

二原合家
現在村崎氏所有の前田は、以前明治中期の深海村長で鹿児島の東長島村長を務めた原合順太氏のものでこの人も薩摩系。

三藤中家(三十郎)
幕府から明治政府の引き継ぎ事務を執った人で江戸末期は富岡代官所の書記を務めた。
この人の着席がなっかったら裁判は始まらなかったと謂う。 下平に「陣出」(じんで)と謂う地名が残り村の中心地である。
 菅には「城下」「城岩」「柵防山」などの地名と天草三大街道の一つである「深海往還」が残されている。志岐には「西目往還」があり、おそらく大江、高浜辺りまで道路は伸びていたのであろう。しかし、西海岸の村名は文書には出ていない。
 宮路氏の「宮路往還」は大多尾辺りが起点であろうか、深海往還は「多々良の迫」の船着場を起点として(こくだし)で下平線と合流し、菅の「文ケ峠」で上平線と合流し付近の人家「柳迫」(註)方面からの小道を合わせて一大往還となる。
【現在は河浦町になったが付近に貝塚(蜷塚)(深海付近には貝塚は無い)を残し江戸期まで家があった。】
 「文ケ峠」から上り下りのない平道を約1500米を歩くと「泊石」(とまりいし)の峠に着く。此処の山中に巨大な石が有り、石の眞央に鬼の足跡と伝説のあるくぼみが着いている。峠の下の川は路木川の上流であり明治の頃までの部落である。今は人家の一軒も無い。此処でまた、久留村から「仁田の首」(古江大神)を経た線と合流する。
「下平」は江戸時代初期まで「平浦」と言い、河浦町「宮野河内」の「上平」も「ひらうら」であった。
 貞永2年(1233年)2月10日天草種有入道譲状案の中に
 「おほゝこと申候村は女子をくくまにゆつり候ぬ・・・・中略・・・・ひらうら(下平)うふしま(産島)又太郎入道にゆつり候ひぬ・・・・」とあり。
 760年前の事である。この時代の街道を天草では往還と言うが、天草には中世頃3大往還があった。
ふくろ、 富岡(とみおか)より志岐氏に通じ天草西海岸を通る「西目往還」。
大多尾から宮路氏に通じる「宮路往還」。
深海から下平を起点として、仁田之尾→菅→文ケ峠→城戸平→泊石→ 本ノ通り→宇土迫→ と、今は既に忘れ去った地名を通る「深海往還」の事である。
 「下平」の「平」とは山の側面の事で、「たいら」と言う事ではない。側面の少し緩やかになった山裾の事を「平尾」と言う。平尾の下の平坦な所を「平床」と称するである。「嶺」とは国境の山、或いは村境の山のことで、先が鋭くなった山を「峰」と言い、人が上り下りする山の部分が「峠」である。
 平尾・平床の地名は「下平」だけではなく、天草の各地に散在する地名である。山に関する地名で「八窪」或いは「鉢久保」又は、「ミノ」(峰尾、嶺尾、箕面、三野)などと呼びならしている地名は「頂上付近の耕地」の事で牛深町、河浦町、久留、久玉町、深海町、浅海、下平、御所浦町などにある。
 また「仁田之尾」(下平)「仁田の首」(河浦町久留)は古代一つの区画であったことを語るもので、深海の「穴の口」(穴の尾)と言うのと同様であり、「穴」とは住居のことであり、「仁田」とは「ヌタ」から来たもので天草には数十ケ所がある。地名で「湿地」の事を言う。
 天草の乱によって村の状態は殆ど老人だけ住む部落となったであろう下平は、幕府の移民政策により村作りがなされた。
 元禄4年(1691年)の下平の村高
 石高
戸数
人口
55石
12戸
92人


内(男 52人 女 40人)
 戸数12戸とは、田中、中村、村崎、尾上、以上4軒は、文政4年代官「高木作ヱ門」より奉行「間宮筑前守」に宛てた下平の「大火報告書」から想像されるもので、その他、野田、岡本、岩本など外3軒。詳しいことは判らない。菅の金左家をついだ山下市八が川上と姓を替え本家百姓、年貢高、下平村の筆頭であり「水道」(みど)の「西川家」も12戸の内の1戸である。(以上は戸田山城守が決めた家造りの制限などから推定されるもの、古文書より)

 なっごらん浜(泣き河原の浜)のこと

 下平の村崎さん付近の河原の事を言うが、東北の相馬節に唄う
     ほろり涙で風呂焚く嫁御
      けむいばかりじゃないらしい
 東北の嫁御は、風呂を焚きながら涙し、天草の下平の嫁御は、この河原に来て洗濯しながら今までこらえて来た涙を流すのであった。私は、この橋の上にじっと立って見れば、洗濯の水しぶきか、涙か、赤く泣きはらした、顔も名も知らない若いこの嫁御(よめご)を想うのである。そして、いたわり、慰めて、文字で伝えることを知らず、村人の口より口に伝えられたこの地名を誰が言いだしたのか、
「なっごらん浜」 (泣き河原の浜)と。
 後にこの浜は文政6年(1823年)牛深の豪商「萬屋(よろずや)助七」の干拓工事により「五反田ん浜」の1町2反歩と共に水田と化し宮地岳村より移住した「原井文仲」が耕作し、其の子順太の時代に村崎家の所有となり現在に至ったのである。

 須の釜

 古代の「食塩製造場」の事で、「下平」を始め「上平」「山内」地方に供給したものであり、この中に「陣出」(ぢんで)と言う。一部は中世の「河内浦城」に関連するものであろうか。

 鬼塚

 5、6世紀の豪族の墓であり、いつの時代か盗掘されていた。天草では最大規模の横穴式古墳であったが道路工事のために跡形もなくなった。

 

 古代の「菅領地」を示し「スガ」「スゲ」が語源である。古代から寺沢領時代までの村名は判明しないけれども、寺沢領時代は「下平浦村」となりこの時代以前は「下平浦村」の業病人の墓場(悪い病気 ホウソウで生きているうちに連れて行かれた)は久留村の山中に在りこの頃は村が同じであったことが伺い知れる。この付近の地名には、

しろ岩(河浦町宮野河内上平区) 山中に貝塚在り
城下ん平(じょうかんじゃら)
木戸山(或いは城戸山か→河浦町)
木戸平(或いは城戸平か→河浦町)
柵防山(さくぼうやま)
屋敷ん窪(築城の際のものか石垣の跡が残る。)
深海一番の平坦地である。久玉の正光寺も一時期有りその後祈祷をするお寺が在り、後出水(鹿児島県)に行った。
鈴木迫(河浦町久留の仁田首と接している。鈴木と言う姓がこの付近を支配していたのでろうか。)
門迫(菅の北側である。)
文ケ迫(田が二反位、この付近で清磁の茶碗のかけらを拾った事が有る。)
上木場(古代の焼き畑農業の跡である。)
 また、天草島原の乱の時「金の十字架」を「柱岳」の麓の「三角池」の中に沈めたと書いている書物が多い、その「三角池」は「菅」のすぐ近く。
 「こまんか時きゃあ、草切りにちょいちょい行ったが、今は水が無くなり雑木が大きくなって判らんごてなっとるばな。」
と、教えてくれた老婆があった。
 「菅」の意味は「菅領地」を指す土地の事で名前の通り、「城岩」「城下ん平」「屋敷ん窪」「門迫」「柵防山」「城戸平」等、城が無いにもかかわらずこれだけ「城塞」に関連する地名を残す所は少ない。
 天草の乱で島原落城の折り、六十Kの金の十字架を埋めたとする「三角池」は、現在形のみを残し探すのにも困難な状況である。
 何時の頃城があったのか教える人も参考資料もないが、道路が縦横に走り河浦町の「新合」、「上平」、「白木河内」と道路の中心であることは伺い知る事ができるが、その道路もだんだんと開拓されて草木繁り失われつつあるが「城戸平」の一部だけは古来の「深海往還」として広い山道が残されている。
 菅の部落は明治初年で約10戸位であった。(水道と赤松で)現在は一軒も無い。
 天草の歴史に「平家の落人の里」と記され、今は無人となり訪れる人とてない。「菅」は海まで、南は5キロ、北は新合まで8キロ、東西山々に囲まれ「五ケ荘」(八代泉村)よりの人々と噂されるこの里は、古代より深海往還の要衝の地である。
 後山、泊石、鞍置、柳迫、鈴迫、水道、赤松、去家、下志良、仁田尾、仁田ん首などの近世小集落の中心であり正光寺の「御座」も「菅」に置かれたのである。(川上幸太郎)古城がいまだに聳える様な地名も残している。城岩、城下ん平、柵防山、垣の内、屋敷ん窪、門迫などで、中でも屋敷ん窪は伝説と遺跡に恵まれた深海一番の広い平坦の地であり、「菅」とは「菅領地」の事である。
 天草の古い地図には必ず「菅」「水道」と部落名が残されている。島内には人里離れた山中の部落は多いのになぜ「菅」だけが地図上に残されるのか?
 私が16才の冬、鰯漁に出て甑島(鹿児島県薩摩郡)の里の港に避難したことがある。村外れに墓場があり百年前の墓、二百年前の墓石が並び海岸の松林の中なのに松葉一本無いくらいに掃除されていた。私は深海にはこんな古い墓石があっただろうかと思い、帰ったらすぐ見て廻る事にした。この村には深海の崎口家と交流のあったとされる、柔家、塩田陣太夫の石垣で築かれた塀を見物して帰った。このことがあってから深海・浅海・下平の墓を意識して見て廻り、一番立派だったと覚えているのは下平の「滝原家」の墓である。
深海の墓場の古いのは「菅」にあった。「金左清門墓」と記された墓石である。 
 平家の落人の里とは誰が言い出したのか書いてある本まである。平家の落人の里があまりにも多すぎる。また、平家の末裔だと名乗る人もいない。たぶん、現代人感覚では、人里から遠く離れているからだろうが、その頃は(中世から江戸初期まで)交通の中心であった。しかし、球磨の「五家ン荘」からの落人であると言い伝えられ、それらしい苗字が残っている。「金左清門墓」(カネサ・キヨカドのはか)、そして「五家ん荘」にも「左座」(ゾウザ)と言う苗字がある。両方に「左」がついている。深海にも、「浜崎・浜元・浜下」とか「口脇・口元」とか一族の姓を一字取ることは昔からの習慣であった。「菅」に明治初年まであった茅茸きの家は、深海の庄屋橋口家に次ぐものであったと伝えている。
 天正19年(1591年)河内浦に「天草学林」が開設された。文法学級3年、語学・哲学と古典学級3年、神学4年の10年制大学で、九州各地からの学生は皆この最短距離の「菅」を通らざるを得なかった。

 水道

 「水道」(みど)とは「教会」の事を示す地名で、寺跡を知る地名では寺屋敷、寺ん上、寺ん下、寺ん迫などの地名を残している。この地方に残るただ一つの教会堂跡の地名である。この付近一帯を総括する地名として「山内」と言うが「内」とは添う事で、河に添う平地を「河内」、山裾に添った平地を「山内」と言う。余談になるが家に添って仕える人を「家内」(かない)、本家の意志に添って行動するを「館内」(やかたうち=やうち)と言うのである。

 幕末期の下平の浪人

上村改右衛門(黒崎の深海4番地に住す)
その娘3人は菅の金左家、宮野河内村の川口家、下平の太田家に嫁している。
滝原和太六
深海一番の豪華な墓石と御領村の名士山崎家から嫁を迎え、その権勢を誇る。
原井文仲
有名な能筆家であり、その息子順太は、明治20年代の深海村長である。(現在の太田店の所に住す)
藤中三十朗
川姓の男子と野姓の女子の駆け落ちで、富岡代官所書記として出仕し、明治政府最初の深海村の政務を執った人である。
 以上4人は薩摩藩の財政の疲弊と、家老圖所笑左衛門等に反対する人達であろう。
尾高亀造
幼年期を下平で過ごした彼は後に佐賀中学から陸士、陸大を経て陸軍中将軍事参議官となる。佐賀士族である。

 牛深村
久玉村
鬼木村
早野浦村
赤海村
亀浦村
深海村
平浦村
311石918合
283石260合
386石220合
259石617合
 72石570合
269石360合
 60石724合
229石749合
 以上1596年の記録で1石一人の人口にすれば大体1870人がいたことになる。
 平浦村は、「上平・産島」を含む。「赤海」は「浅海」の事である。
 天草の乱によって村の状態は殆ど老人だけ住む部落となったであろう「下平」は、幕府の移民政策により村作りがなされた。

 姓の残っている地名

 「鈴木迫」と言う地名が残っている。「鈴木」の姓は、九州がつまり発生地ではないけれども武士であった事は苗字があるからそう思わざるを得ない。「下平」の奥地「水道」(みど)の裏側辺になる。2反歩位の水田になっている。
 「長田ん平」(多々良ん迫)は「長田」と言う姓をもつ人の住居跡であろう。私の想像ではあるけれども山道氏の所有になっている畑ではないか、この畑の下の草藪は貝殻だらけの薮であり勢力者の屋敷として適当な敷地である。故滝下栄治郎氏が、
 「おるげん下は、浜んこらだった」
と、いろん立証してくれた事がある。
「青木平」(あおきじゃら)→「殿やま」(どんやま)と「六郎次山」とを結んだ中間。この辺り一帯が「中之迫」。もともとの家があったのではない。「青木様」 と呼ばれる人が住んでいたそうな。(故緒方ツルさんの談)
 この武士たちが住んでいたのはいつの時代か、江戸時代には姓を名乗る人もあったが、江戸時代末期のではない。