どんくタイトル

1-13 深海の神社と寺(その3) 
 地名は歴史の生き証人と言う。この地名を正しく理解し歴史を解明することが我々の責務ではなかろうか、但しその地名さえも忘れ去られようとしている。
じゅうごそ天草の乱以前の十五社宮の事で浦河内の造船所付近の事である。
宮之前(地名に述べる)
大町の天神(椎ノ木崎)
塞の神(漁協の迫)
堂(ドウ)ん山(農協の上)(殿山ドンヤマ)とも出てくる。
記録によれば江戸時代中頃まで、寺は無く、天神社のみが明記されている。天神社とは大町の天神の事である。 乱後、浅海、下平、上平、と甚だしく人家の少なくなった部落には、寺も神社も建立されなかった。乱後の移民によって形づくられた東海岸の村々は、寺を建てるほどの人家はなかった。島津藩史によると天草は亡所(人がいない所)と化したと、伝えている。

 浅海の神社

 浅海と山の浦の中程に、「じゅくさ様」と書かれた祠がある。古代の海人族の竜宮社の事である。淵の江の迫近くで、この迫の石垣の構築の古さに魅せられる。現代の神様は天保時代の再建になるものである。
 これが天草の乱以前の十五社であり、切支丹によって破壊されて、天保年間に再建されたものであり、小学校の裏の十五社は江戸後期の建立による。その外八幡宮もある。

 深海の祭り

 江戸期の深海の村々の移民当時の生活は厳しく、元禄の頃まで死亡月日、戒名などの書かれた墓石はなかった。(昭和15年の調査)
 墓石も購入できず、百姓家の中には移民の際、村役人の指示により、区民の区役によって建てられ、代官所には「移民小屋」と名づけて年貢の対象から外されている家が多く、当然村祭りも名のみであり、何も変わるものはなかった。
 明治末期、船津区長の口脇辰平が、久玉、上平などの様な事は出来なくても、せめて御神輿(おみこし)だけでもと奔走したが、徒労に終わった。
 下平の醤油の實祭(しょうえのみまつり)、浅海の大根祭などと御馳走の無い事を言いはやされる程淋しい祭りであった。現在の深海の神社の御神体は、昭和10年頃下浦村の石工松岡某に注文して作製したものである。深海、浅海、下平共に10月15日を十五社祭として20日が天満宮の祭りである。

 菅(すげ)の寺

 深海村下平より一里の山中に「菅」と言う部落があった。牛深町の大島を海の孤島にすれば、菅は陸の孤島である。中世に栄えた部落でここの「屋敷ん窪」に寺屋敷の跡がある。(川上 清氏所有)祈祷をするお寺であった。が、小西行長の寺社の打ち壊しにあったのであろう。難を隣国、出水郡高尾野に逃れる。ここには、明治初年まで水がこんこんと湧き、建物は無かったが花畑には菊の花が咲き誇っていた。
 ここより程近き処に、菅の人々の草刈り場であった、柱ん岳の三角池がある。
 日本埋蔵金の一説に、天草島原の乱に敗れた天草四郎の遺臣は、60Kの金の十字架を埋没したという。池は薮となり今行ってもなかなか見いだせない位である。

 下平の寺

 下平は、鎌倉時代より桃山の時代まで栄えた天草氏の居城河内浦(一町田)の東玄関口として栄えた。
 中世文書、天草種有譲状案(志岐文書)

 「ぢやうゑい二年(貞永2年・1233年)二月二十六日たねあり入道書付案一通ハ」
   ゆつりわたす
  肥後の国 天草の郡
  ひこのくにあまくさのこほりのうちたねあり入道かりやうほんとのしま乃ちと
うつくしき乃事 中略 このうちかうちのうら(河内浦)ハめにて候
も乃ならひに、こまおう(王)におもいあて候ぬ、又おほミ(大江)と申候む
らハ、女子をくゝくまにゆつり候ぬ、かちやまかうち、をなしきしくひらき、
たかはま(高浜)、ひらうら(下平)、うふしま(産島)又太郎入道に
 以下略
ぢやうゑい二年二月二十六日
                   種有入道 在判
 以上のように平浦(下平)は、大江、高浜(天草町)に並ぶ大きな村であった。
 お寺は現在の寺ん迫にあった。この部落には切支丹の信者が多かったのであろう。切支丹の壷を発見した。私の読める字ではないので、専門家に依頼した処「愛」と読むのだそうである。この時代までは愛と言う語は日本にはなかった。切支丹が作った新しい言葉である。
 聖書の中「コリント人への手紙」13
 いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。この中で一番優れているのは愛です。
と、愛の大事なことを説明してある。
 この他にも下平(平浦)には「隠れ切支丹」の久留子紋(十字架を図案化した物)を家紋としている家がある。
「フロイス日本史」(中央公論社版・19~32)  
 天草諸島はすでに該等箇所で述べたように、五人の殿によって支配されている。そのうちもっとも強大なのは、天草ドンジョアン(天草久種河浦城主)殿で、すでに幾く年も前からキリシタンになっており、これら五人の殿(天草・志岐・大矢野・栖本・上津浦)のうち他の二人もこの度の迫害中に家臣共々キリシタンになった。
その一人を大矢野殿と言い、他を栖本殿と称するが、五人の中では両名とも小さな殿である。
 この二人よりも、大いなる(殿)である志岐殿と上津浦殿が(キリシタン宗団にとって)長けていたが、本年、主(なるデウス)は彼らが6千人(の家臣)とともに改宗することを嘉(よみ)し給うた。

 浅海の寺

 浅海にも江下に寺跡があり地名だけが残されている。古代(天平時代)に「倭名類聚抄」倭名抄に天草郡の郷名が書いてある。

志記大阪にも志記などの地名が見られ平安期に見える郷名と説明されている。此処だけが、苓北町の志岐と判明している。
波太不明
天草此処は河浦説が有力である。
高屋不明
恵家浅海のこの「江下(えげ)」ではあるまいか。上江下・下江下・江下のツて、など江下を強調している。また、浅海の字名の殆どがアテ字が多い事から江下が恵家(えげ)であっても不思議はない。そして村はずれの意味をもつ「荒崎」も近く、村境の事を意味する「ホウシの浦」も近くにあり、平安の郷名が此処にある以上そう判断すべきである。
 深海の領主天草氏は、天正17年加藤清正・小西行長の連合軍に敗れ領主は小西行長となる。行長は熱心な切支丹信者で領内の神社仏閣を崩壊する。その時壊されたものは次のとおり、

 開基 正保3年(1646年)
以上が資料によって知ることができる円光寺の歴史である。
 浅海は、牛深の「加瀬浦」と共に信心の深い部落である。明治12年区民合意の結果、寺号も御堂と共に富岡より購入し現在地に移転されたのである。
 門徒数205、住職「太田隆丸」師。浅海部落は中世期に「赤見」などと書かれた地図もあり天草史に出てくる貴重な部落の地名で、部落民は「牛深市加瀬浦」などと共に信心深い所として知られている。
 肥後国誌によると、浅海の円光寺の兄弟寺とも言うべきか、真宗西本願寺派「府ノ順正寺」の末寺には、
   法浄寺 八代郡栗木村       慶安元年(1648年) 開基之年貢地ナリ  
   崇光寺 八代郡太田郷上松球磨村 慶安4年(1651年) 開基
   正法寺 八代郡有佐村        寛永14年(1637年) 開基
があり、円光寺と名のつく寺は
   円光寺 下益城郡松橋町
   円光寺 玉名郡築山村
   円光寺 飽託郡春竹村(現熊本市春竹町)
などがある。

 下平の勝楽寺について

 下平の「説教所」も幕末期「正光寺説教所」として栄えたものであるが、歴史に記されているものの全べては深海の場合、天草の乱以後のもので寺ナシと明記している。下平の古老たちは、「しかかっぷ」と愛稱する獅子舞の上平行列と共に「正光寺詣で」は村の楽しい二大行事であったと言う。
天草の乱が終わったとき、深海村にも、宮野河内村も中田村も寺を建立するだけの人家はなかった。薩摩藩史に見る天草は、亡所と化したと報じたのはこの付近の村々のことである。
 江戸時代から今日まで、勝手に「寺号」を名乗ることは許されない。そして、新たな「寺号」も「本山」から許されない。「無住寺」の寺を探して交渉するしかないのである。
 「勝楽寺」は、天正19年(1591年)安藝の国、亀山の麓「堅田」に創建、その後、「山口県萩町字北古萩」の地に移転している。

【註・山形有朋〈明治22年〉《1889年》内閣総理大臣の菩提寺】  
 明治4年(1871年)廃藩置県のため、住職一族共に山口に移住、「無住寺」の寺となる。かくして、号大正12年(1923年)12月22日、話がまとまり「勝楽寺」の「寺号」は移され、大正14年(1925年)3月15日、付近の村々の人々も招待され、下平部落を挙げてのお祝いであった。
 門徒数は、下平に103軒、上平に105軒ではあるが、住職「中村法顕師」は、西本願寺傘下屈指の布教師である。
下平 ①寺ん迫の寺
②地蔵さん
浅海 ①恵家の寺
深海 ①塞の神 (漁協の上)
②じゅごそん浜 十五社の訛ったもので、浅海ではじゅぐさ様、他村ではじゅごそと訛っている。)
③宮ん前 (向えの真珠会社付近で、神社に供える高さ30センチ、幅20センチの鳥居を鉄の薄板で造ったものが何枚も出た。)
 その他の首なし地蔵もこの時折られたものであろう。行長は他宗から切支丹に転じ洗礼を受けた者は一ケ年間の年貢を免じた。天草氏の領有した時代は、海外との貿易を計る為熱心に切支丹を教え、 小西行長は自分もキリシタン大名として権力で改宗をすすめて行ったが、僅か10年にして関ヶ原の合戦に敗れ寺沢領となり天草島原の乱となる。
 乱後の天草代官鈴木重成は実兄正三和尚と力を合わせて、寺の誘致、神社の復興に力を入れた。いち早く開基したのが、久玉の無量寺と正光寺である。
 正光寺は、西本願寺の構内にあった。現在も京都七条に正光寺が現存する。正光寺はその分寺で、初代は河浦町新合の市ノ瀬にあり、後に深海の菅に移り、久玉町吉田に到り、各宗を通じ天草第二の大きな寺となった。一番は樋島の観乗寺(西本願寺派)である。

 深海の徳勝寺について

 文久元年(1861年)を前後して深海・浅海・下平に説教所が創立され、深海には正光寺の修行僧の中から尾上辨寧が選出された。元治元年(1864年)下平の説教所には船津の有志10名、下平の3軒の有志で半鐘が寄進された。この頃正光寺には薩摩方面からの参詣が特に多く、境内に薩摩部屋と言われる宿泊用の部屋も設けられた。これは、薩摩藩が一向宗(浄土真宗)改めなどあり禁止したので宗教上の理由から牛深への移民も多かったのである。
 江戸末期、浦河内の説教所は寺に昇格するために京都寺社奉行に訴えを起こす。下平・浅海の説教所もこれに従う。徳勝寺の開祖「辨寧」と正光寺15世練籍の時代で正光寺最盛のころである。正光寺はこの寺騒動として伝わるこの事件を門徒3千有餘軒の中から代表者「鶴長善平」を京都に向かわせる。
 一方「辨寧」は、弁舌の巧みなこと人に秀れ、立て板に水を流すごとく演説する人を当村では「辨寧のようだ」と言うくらいの人であった。
 数年も続いた裁判は、四回目の呼び出しによって終結した。明治六年の夏も終わりに近いころであった。
 彼は(鶴長善平)、妻の差し出すすすぎの水に目もやらず、上がり框に腰をかけたまま動こうとはしなかった。そして時勢とは言えこの裁判に敗れた悔しさに泣いた。往復40日の里程も、野に伏し、お堂に寝、真夏の炎天のたんぼの水でハッチャンコ (はったいの粉)を練って食したことも彼には苦労ではなかった。
 23才にして常年寄り(じょうとしより)となり平和な村を築いた彼は、初めて負けを味わった。

 浅海の円光寺について

 肥後熊本順正寺の末寺 円光寺

寺地
客殿
四畝十七歩
弐間半ニ
六間半之積り
御除地

萱葺き
 庫裡二間半ニ
六間半之積り

萱葺き
 是は先年大破ニ付キ今建立御座候
 寛延3年(1750年)
 肥後国天草郡富岡町明細帳
僧尼数 55人
 32人     
  19人     
  山伏  4人     
        
  11人 2人禅 宗瑞林寺住寺弟子共
   4人 2人浄土宗寿覚院住寺弟子共
  10人 8人眞 宗 鎮道寺住寺弟子共
   2人 2人眞 宗円光寺住寺弟子共
   5人 4人眞 宗聞法寺住寺弟子共
  山伏  4人     
  55人     


神社と寺08
浅海の天満宮
神社と寺09
天満宮拝殿

神社と寺11
浅海の円光寺

神社と寺11
浅海の円光寺