どんくタイトル

1-12 深海の神社と寺(その2)
 鈴木重成の復興計画の一つとして社寺の復元に力を入れ、切支丹宗徒による神社仏閣が破壊され後の神社として十五柱宮を建立している。深海の「殿山」(どんやま)である。その外にも、向かえに一か所あったと謂れ薩摩川内の「新田八幡の境内」にあるのがそれであると伝えられている。「大松」には天神様が祀られて居るが天草の乱を境に波止の迫にも大松にも人家は絶えてしまった。当時の舟人が利用したであろう波止場の石垣も今は半分以下を残すのみとなった。住居の跡からは何回も使用したであろうと思われる、石をくりぬいた釜が出土した事がある。昭和初期の事である。
 鈴木重成は乱後の処置として施政の目標を民生の向上と思想の善導におき郡内の行政区画を定めて、富岡町外86ケ村とした。この時定められた村境が現在のものであるが、図面その他にはっきりしないものが昭和の時代まで続いた箇所もある。

 深海の寺

 86ケ村を、志岐・井手・御領・木戸・栖本・教良木・砥岐・久玉・一町田・大江の10組に分け、一組毎に大庄屋を置きその下に各村庄屋を配し庄屋の下には年寄り、その下には百姓代を置いた。深海の場合は、

 中原  →橋口 →鶴長   大庄屋 ─庄屋 ─年寄り┬─百姓代(時代により交替した)
└─組頭 (船津・交替制)以上であるが、、正月の2日が深海の村民の集会で踏み絵(会)もこの時行われた時代もあったが、通常この日に組頭・百姓代が決められたけれども年寄りの場合は常(じょう)年寄りとして世襲された。
 鎌倉時代、應長元年(1311年)天草氏の領地の中に、川内浦(一町田)産島(宮野河内)大多尾・深海とある。
 永禄12年(1569年)河内浦城主天草伊豆守鎭種は宣教師アルメイダを招き河内浦に会堂を建てて盛んに布教に力を入れ、領民にキリストの信仰を強要し領内12ケ所に会堂を建てた。現在当時の寺屋敷と呼ばれる教会堂の跡は、立原・平床・今村・宮野河内・一町田・崎津・深海にある。
 翌元亀元年5月までの2年間に深海の神社や佛寺は破壊され各所の地蔵は首を折られ投げ捨てられ、「塞の神」は土中に埋められ漸く出水の「高尾野」に難を逃れた。祈祷寺もあった。領民である深海の人達は、無理に信仰を強要された。
 深海の「徳勝寺」は、その時の神社の跡で、寺と称するのは現在の久玉町の「正光寺」がしばらく居を「菅」に構えたのみで、元治元年までお寺も説教所もなかった。
 慶安元年(1648年)天草代官の願いにより幕府は一町田の崇円寺、久玉の無量寺等16ケ寺と二つの神社に300石の禄を分かち与えた。無量寺には寺領10石(旧新合村平床の内)が給せられたが一向宗(浄土眞宗)には与えられなかった。ただし切支丹の転宗者は「浄土真宗」と定められ「在家説教」の特権も許された。
 「在家説教」とは、一般の「百姓家」で説教することで、交通不便であった当時の農民も漁民も喜び、傾聴した。これを人々は「御座」(おざ)と称した。
 深海での「御座」は、浦河内は「浦崎家」、東多々良は「鶴長家」が代々世襲した。
 「御座」の「阿弥陀繪」は「二百様」と言い、一般の在家の「阿弥陀繪」を、「百様」と言う。これはその寸法の事である。
 「正光寺」から「年忌」「葬式」「御延繪」(ごたんえ)「御正忌」「彼岸」「お盆」「永代経」等の一切の行事に出張されたけれども、「夏参り」には、大正の末期まで「上平」「下平」「深海」「浅海」と各部落から正光寺に参詣し、市が立つほどにぎわいを見せた。
 「正光寺」は、京都市七条にある「正光寺」の分寺である。