1-11 深海の神社と寺(その1)
深海の寺社は、天草の乱によって完全に焼失されたと言ってよい。残っているのは大松(オオマツ・ウマチ)の天神のみで破壊されずに現在を見守っておられる。
下平は、江戸初期に「下平浦村」と言い村高は深海の約2倍位で中心地は「菅」である。
「屋敷窪」には、この土地が寺跡と言われている畑(川上 清 所有)がある。祈祷するお寺であった。乱による難を出水郡の高尾野に逃(退)れた。明治初年まで、山頂近くではあるが水がこんこんと湧き、花畑であったろうと思われる箇所には菊が咲き乱れていた。
日本埋蔵金の一説にはここより程近い柱岳の麓の三角池に、天草四郎の遺品の金の十字架が埋没された。と、伝えている。現在池の形だけが残り雑木が繁っている。
下平の「とんごん迫」に「寺ん迫」がある。この迫にあったと伝わるだけで、詳しいことは伝えられていない。私はこの付近の農家にあった切支丹の「つぼ」を持っている。それには、文字が刻まれている。専門家に依頼して読んでもらったら、古代文字で「愛」と読むのだそうである。
聖書の中の「コリント人への手紙」13、 「いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。この中で一番優れているのは愛です」と、このほかにも隠れ切支丹の久留子(クルス)紋を家紋として代々受け継いでいる家もある。本人達は、何も知らない。
「加藤清正」の助勢を得た「小西行長」は、南部天草を領した「天草氏」等天草五人衆を破り「天草」を領した。「小西行長」は熱心にキリスト教の伝導を計り、領内の「神社仏閣」を焼き払った。
天草の殿様「小西行長」は関ヶ原の戦いに破れ、かわって肥前唐津の城主「寺沢広高」領となる。
慶長18年、幕府は切支丹禁令を敷く。領主の方針により切支丹からの転宗者は浄土真宗と定められた。
これより先、深海の船津崎の漁協の上の「塞の神」(サイのかみ)も、向かえの真珠会社の奥の神社も「宮の前」と言う地名だけを残すのみとなった。
浅海にも「寺ん下」と言う地名が残り寺があったことを知ることができる。
乱後、深海の村人は久玉村の正光寺門徒となり一部無量寺の門徒となる。
「正光寺」は、西本願寺の構内にあって今も京都の七條に「正光寺」と言うお寺があり、この「分寺」であり格式の高いお寺である。しばらく、河浦町の「市之瀬」に在り、途中「深海」の「菅」に居を構え「久玉」に到る。
正光寺の開基は「義空」で現在は20世「一方」和尚である。 開基(義空) 2世(明円) 3世(明智) 4世(辨應) 5世(亮蹄) 6世(亮哀) 7世(義逢) 8世(寂應) 9世(亮月) 10世(惠亮) 11世 (義雲) 12世 (義天) 13世(総練) 14世(貫練) 15世(練籍) 16世(寶林) 17世(常然) 18世(隆教) 19世(珂堂) 20世(一方)
慶安元年(1648)天草代官鈴木重成の願いにより、一町田の「宗円寺」、久玉の「無量寺」等十六ヶ寺と二つの神社に300石を分かち与えた。「正光寺」には「寺領」は与えられなかったものの「在家説教」の特権が許された。
「在家説教」とは、一般の百姓家で「説教」することで交通不便な当時の農民も漁民も之を喜び、説教する在家を「御座」(オザ)と称した。
御坐の「阿弥陀絵」を「百様」(普通在家百様)と言う。これは、その寸法の事である。
百様=一尺 (阿弥陀絵の長さが一尺あった)
年忌・葬式・彼岸會には、正光寺から出向いた。其のときの「御座」は、浦崎家・鶴長家である。
文久3年(1863年)檀家の願いにより、広浦(下平)と浦河内の焼失された神社跡に「説教所」が設立された。浅海もこの時代のものと思われる。
浦河内の説教所に「尾上辨寧」、下平に「中村法けい」が選ばれた。元治元年には船津の10軒と下平の4・5軒程の有志が半鐘を寄進した。
これより先。万治元年(1658年)薩摩藩に一向宗(浄土真宗)改めなどあり、之を禁止したため、長島方面からの信者の宿泊用に「さつま部屋」なども設けられた。そして、宗教的な意味の移民も少なくなかった。(文献にはない、語り継ぎ。50年前 川上 豊 父より聞く) 江戸末期、徳勝寺(説教所)は寺に昇格せんと訴えを京都寺社奉行に事を起こす。徳勝寺開祖「辨寧」と正光寺15世「練籍」の時代である。
練籍は代理を門徒4千人(長島を含む)の代表として、深海の定年寄(定世襲)「鶴長善平」を京都寺社奉行まで4回も遣わしたが敗訴に終わった。
終結したのは明治6年の夏のことである。
十五社様は乱後(寛永14年・1637)の再建になるものである。すぐ道脇の鳥居は郷社、宮崎八幡宮(牛深)に「冨河仲蔵」と言う人が寄進したが、
「新参者のくせによせらんこっばすんな(余計なこと)」
と言うことで、ロープで引き倒して海にほうり込んだ。これを知った常年寄(常世襲)鶴長善平、組頭業助を伴ない牛深村より貰い受け、船二搜を並べ真ん中に吊り下げて海中を運搬したのである。
鳥居は引き倒した際に額が二つに割れ新調した。八幡宮の額は「橋口嘉仲太」の筆になるもので、天草大官所に聞こえた能筆家である。
建立後、彼は鶴長善平にこう言った。
「石屋がこれ位しか削れんもんじゃれば、こんな苦労ばせんでよかったのに」
八幡宮の「八」が気に入らず40数枚も書き直したそうである。
宮崎八幡宮に最初奉納した「冨河仲蔵」は牛深の銀主で屋号は「くすり屋」。子孫には二江村の裸潜りを使って沈没船の引き揚げ会社を作った者がいる。
明治7年(1874年)オーストリア博覧会に出品された美術・工芸品を満載したフランス船「ニール号」が、返送途中、伊豆大島沖で沈没した。之を引き揚げたのが「冨河仲蔵」の子で「誠一」である。
江戸時代半ば迄十五社宮の鳥居付近は瀬になっており、満潮時には「石持岳」(いしもっだけ)の下を通り、干潮の時だけ通れた。深海の神社の鳥居には、八幡宮と十五社宮があり、御神体は昭和10年の頃、下浦村の松岡氏に依頼したものである。私は、神社改築以前の神殿の木頭で、狛犬の彫り物をもっている。ユーモラスな顔で、江戸時代以前のものではなかろうか。(註 現在の鳥居の「八幡宮」の額は、平成になって新しく製作された。)
【 大松の天神】(大町)
天草五郷(天草・志岐・栖本・大矢野・ )の時代から慶長8年(1603年)に肥前唐津の城主寺沢広高の領地となる。唐津8万1千石を領有し天草4万2千石を飛び地として領有し寛永14年まで続く、天草を120ケ村に分割し重税を課した。
深海には田畑を40石の村高として年貢を課したのであるが、その頃の半分の田畑の反別は「大松」から「波戸ん迫」迄の海岸に集中した。
一反一石の石盛りと見て「四町歩」の田畑が深海に存在したのである。此処には一枚で「二反歩」の田がありこのことを指して「大町」と言ったものである。
「町」とは、田のことである。浦河内の「前田」多々良の「田」などは江戸中期以後の開拓である。この付近一帯は、古代からの集落跡であることは地名に述べるが、遺跡調査の発掘願いが提出されている。
天神様は、石の塔に石の屋根・扉等歴史を感じさせるに足る威厳のある神様である。
天神様に関する2~3の話で実在がある。 ① 浦河内から此処までの間に「殿越」(トノゴエ)を通る。右側は「凶事の浦」(ケジノウラ)左は「芥子の浦」(ホウシノウラ)の咽喉の道とでも言おうか、極端に狭いところがある。この場所を掘り切って、深海と浅海の船便を短縮しようと工事にかかったが、不思議なことが起こり、大松天神の祟りだと言うことで中止となった。この後、「凶事の浦」の干拓が起こり「芥子の浦」の埋め立てがなされた。 ② 江戸中期、対岸の長島の連中が2、3人がかりで天神様を船に載せ運び去ろうとした。しかし、船は押せども引けども微動だにしなかった。神様を元の位置に返し連中は青くなって逃げ帰った。
③ 天神様のすぐ横に、古木がある。あまり茂って邪魔になるので枝先を切った所、その者は原因不明の病気にかかり死亡した。 こんなことが二回も重なって今はどんな妨げになっても、切る人はいない。これは、伝説としてではなく現在の事である。
大町とは、大きな田圃と言う意味で特定の武士の飛び地以外に深海(下平・浅海を除く)に2町歩位の田圃しかなかった。この中一枚で二反歩の大きな田がある。この事を意味したもので、「大町」が「大松」に訛ってしまったのである。
中国の風水説に、 「三方が山に囲まれ一方に川が流れている土地は、王侯の都に適し、王侯の死後も永世の墳墓の地にふさわしい」としてある。將に大松はその通りの地形である。天神様は菅原道真の死後、凶作が続き、五穀豊饒の神として祀られたもので乱以前に部落が存在したことを語る何よりの証しである。
戦前には、土器などが須崎松男氏の所有する畑から出土したそうである。(口脇和美氏より)
右側には「ヤンドンの瀬」、「ヤンドンの上」などの地名が残るのは「弥造」と言う人の住家跡であり左側の山中にも江戸時代初期の墓(まて島以前のホウソウ墓)があった。同地の「松の鳥」の地名は、「町の通り」との意味で、峠を越した南側、「荒崎」の地名は「村はずれ」の事である。
地名に残る「塞の神」は、漁業組合の上にあり、向かえの「ぢゅうこそ」は「十五社」が訛ったのである。この地名は村はずれの造船所付近で、「堂ん山」(ドン山)の「神様」は通り脇の奥の鳥居が延応(応だけが判別しにくい)元年(1239年)の字が残っている。
天草代官鈴木重成の遺志によって江戸中期以後に「ぢゅうこそ」から「堂ん山」に移転されたものである。移転の時には鳥居は壊され神社の形はなくなっていたのであろう。
或いは、「じゅこそ」 「徳勝寺」 「堂ん山」と三転したかもしれない。
(徳勝寺《説教所》は新しく、樹木は特に古い。)
八幡宮の額のある鳥居(道端)は牛深の「冨河仲蔵」と言う人が郷社「宮崎八幡宮」に寄進したものであるが、宮崎には当時漁師で産をなした人が多かった。
「中島屋・岩崎屋・西浜屋・大和屋・東屋・福砂屋・鏗屋・田端屋・越後屋・木村屋・松尾屋」(牛深漁民の記録・武井さんより)
など宮崎部落に集中した。彼らの中には「冨河仲蔵」に心よくないものもあり、漁師と協力して、
「よせらんこっばすんな」
と言うことでロープで引き倒して海にほおりこんだ。
地区別の神社と寺
地区
乱前
江戸中期
備 考
下平寺 2
寺ん迫
寺 なし
現在 徳勝寺の境内に建立されて いるものは何か、(明治まで)
屋こきん窪 殿様(でんさま) 神社なし神社
再建されたもの
十五社
天満宮 深海寺 なし
神社
大町天神
じゅごそ
宮ん前
塞の神寺 なし
神社
大町天神
十五社(再建)
しゃくかみの迫
じゅごそ(浦河内)
向かえで、八幡様か
漁協の上浅海寺 1
じゅくさ様
神社なし寺 1
じゅくさ様
神社 2
八幡様
十五社
寺の上(字名・恵家) 深海村は、43石5斗9升、竈・19、男女・139人、此処より「宮野河内」へ2里半、海上4里。「上平浦」に海上2里。「下平浦」に海陸ともに20丁。
当地より薩州の内「長嶋」(?)船改所まで3里、天神社。
と記されている。
一名三舟とあるのは、鹿児島県出水郡東町三船(みふね)の事であろうか。
江戸時代初期の記録である。
天神は、僅少ではあるが、御供物用の田を所有している。年貢の対象にならない田地を持つ神社は天草でも少ない。天草の乱以前からの深海でただ一つの神である。
天草島原の乱以前、神社があったと思われるもの。一じゅごそ現在の浦河内の造船所の付近で、同名は天草各地にある。
十五社のなまったもの。二じゅぐさ様浅海にあり、再建されたものであるが、中世期以前の竜宮社(りゅうぐうしゃ)のことである。三権現どん下平の現在の墓地の名を言い、地名のみが残されている。
小西行長によって取り壊されたものであろう。
冨河仲蔵が牛深八幡宮に寄進した 「鳥居」を貰い受けた。 |
冨河仲蔵の 文字 |
2番目の鳥居(古い方)
|
中央が「大松の天神様」
| 「大松の天神様」右の看板は椎の木崎遺跡の案内板 |