世界遺産の信仰の価値と地域信仰と風習

崎津・今富の信仰の変遷
崎津・今富の信仰の変遷

 﨑津・今富の文化的景観を形成する要素の中には、目に見えない要素である信仰や民俗も関係しています。富津は16世紀後葉以降、 アルメイダ修道士によるキリスト教の布教から、現在まで複数の信仰が共存し継続している地域です。

 禁教下において、潜伏キリシタンは洗礼やオラショをひそかに伝承し、禁教令が解かれるまでの250年以上もの間、信仰を守り続けました。
 なかでも﨑津の潜伏キリシタンは、メダイやロザリオのほかにアワビやタイラギ貝など海に関するものを聖遺物として信仰したことが特徴です。
 また潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」では﨑津諏訪神社が異仏取調べの舞台となりました。信者は「何方江参詣仕候而も矢張あんめんりゆすと唱申候」と言い、寺社へ参詣したときにも 「あんめんりうす=アーメンデウス」と唱えていました。

﨑 津
隠しメダイ 旧木造教会 信仰対象となった鏡や貝類
隠しメダイ

旧木造教会

信仰対象となった鏡や貝類

 﨑津のキリシタン時代の記録は少ないですが、禁教下における記事が地誌類に記録が散見しています。﨑津教会は、長崎の建築家・鉄川与助により設計されたゴシック様式の教会で、昭和9年に建てられました。建てられた土地は、  﨑津教会の神父であったハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡が選ばれています。この絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたと言われています。 教会内部は国内でも数少ない畳敷きで、畳に座ってミサを行うことは、日本と西洋の文化の融合を示しています。
  両集落ともに水方を中心とした組織を作り、仏教儀礼や年中行事などにキリシタン信仰を反映しながら、潜伏キリシタンとして信仰を継続していました。
 﨑津では禁教下の潜伏から、仏教への転宗、その後の教会への復活という歴史があります。禁教下において、仏教や神道へ転宗していた﨑津の信者は、潜伏キリシタンとして信仰を継続し、明治期のキリスト教解禁以降には、今富字大川内に建てられたといわれるカトリック教会が、 現在の﨑津諏訪神社横に移され、信者も教会に帰依するようになりました。このようにキリスト教復活と共に潜伏としての信仰は途絶え、今日まで複数の信仰が共存している地域です。


今 富
志茂共同墓地不空羂索観音坐像 今富の聖遺物
今富の年中行事
志茂共同墓地
不空羂索観音坐像

今富の聖遺物と年中行事

 対する今富ではキリスト教や神道、仏教などの宗教的要素と山岳修験などが土着することで形成した、民俗的要素が共存しあうことで文化的景観を形成しています。禁教令以前はキリスト教を信仰していましたが、禁教下においては仏教や神道に転宗する一方、潜伏キリシタンとして信仰を継続しました。しかしキリスト教解禁以降、復活するものはほとんどおらず、 かくれキリシタンとして信仰を継続したため、表面上ではキリスト教は衰退の一途をたどっています。
 文化2年 (1805) の天草崩れでは潜伏キリシタンの一斉検挙により、 信仰内容や代表者信者数、信仰対象地など文献に記録されていたため、当時の様相を伺うことが出来ます。集落を取り巻く後背山には、聖水汲み場をはじめ、天草崩れで取り壊されたとある「弓取りの墓」や「ウマンテラサマ」といった墓地や信仰地が集落とセットで配置されており、聖遺物として鏡や木彫仏、土人形、石仏を再加工したキリシタン遺物が残り、地域の歴史や特色を色濃く反映しています。
 解禁後、復活せずにかくれの道を選んだ今富集落は、仏教や神道を継続したため、キリスト教は途絶えたものの、年中行事を行う際には、キリシタンの要素を含む装飾をするなど「かくれ」信仰が根付いた地域で、今日までその痕跡を見ることが出来ます。