古来より﨑津では漁業を、今富では農林業を生業としていましたが、狭隘な土地に集落が形成されたため、そのほとんどが集落特性に応じた生業以外は行なわれませんでした。そこで﨑津からは豊富な海産物が、今富からは農・林産物や石炭などが往来するなど、両集落は互いに依存しあうことで生活基盤をたてていました。集落内には、明治後期当集落の隣町にある大江教会に赴任していたガルニエ神父が﨑津教会を兼任する際、布教活動を行うため往復した「神父道」と呼ばれる峠道があります。
九州大学に所蔵されている「天草嶋﨑津港近郷海浜要図」にはこの神父道を大江道と記しており、「天草郡公料私領御領主御支配交代年暦鑑」には、こうした村々を繋ぐ道が描かれています。 﨑津の「メゴイナイ」と呼ばれる行商はこうした峠道を利用し、﨑津⇔今富を中心に﨑津⇔今富⇔一町田、富津⇔大江、富津⇔本渡、富津⇔苓北に至るまで生活物資を運搬していました。これらの道では生業だけでなく文物交流も行われ、 﨑津は中世以来の海路、今富は陸路における交通の要衝ともいえます。
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