土地利用の変遷
﨑津は漁業集落特有の密集集落、今富は迫地形に営まれた農業集落という非常に狭い土地のなかで、効率良く生活を営むための工夫を行ってきました。なかでも﨑津は1.海岸線の拡張、 2.「トウヤとカケ」、今富では「干拓事業」という構成要素が景観や歴史と結びつくことで文化的景観を形成している地域です。
﨑 津
海岸の拡張
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海岸線の変化
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確認調査による海岸線(護岸の裏込め)
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﨑津は山と海に接する狭隘な土地に集落を形成したため、現在に至るまで海岸を拡張し居住地を拡大してきたといいます。拡張以前の旧護岸を確認するために、集落の一部を発掘しましたが、江戸時代の護岸を確認することは出来ませんでした。しかし、従来の海岸線と思われるラインを確認することが出来、おそらく現在の海岸より10mほど内側に江戸時代の海岸があったと考えています。このラインが、現在の地割りとほぼ一致すること、聞き取り調査のなかで100年ほど前までは、教会前の道までが海であったという古都と一致します。 |
トウヤとカケ
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トウヤとカケ概念図
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干拓事業による農地拡大図
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「トウヤ」は軒と軒に挟まれ形成し海へと続く「小路」のことで、「せどや」や「せどわ」とも呼ばれています。 一方の「カケ」とは、護岸から海に突き出た構造物で、船舶の碇泊や干物作り、漁具の手入れ、物干し場など﨑津の漁業集落特有のものです。トウヤを進むと、先にはカケにつながるものがほとんどで、集落と船を簡単に行き来する手法が昔から成立していました。 﨑津集落は、庭がなく、 狭い土地に密集して生活が営まれています。その生活空間を効率的にする一環として、トウヤやカケは造られました。ちなみにカケに使われている構築材は、今富地区で採れたシュロや竹などを用いており、両集落が協働が見受けられます。 |
今 富
干拓事業による農地の拡大
今富は、後背山の織り成す狭隘な迫地形の中で農業を行ってきたが、江戸時代中期以降の干拓により農地を拡大し、水稲耕作を中心とした生業体系を確立しました。享保17年(1732)の『大江組明細帳』内の記録に、「是郷蔵ヨリ船場迄道法拾町」とあるように、年貢等の荷下ろし港が今富にあったと伝えて、船着場は干拓地先端の志茂地区であったといいます。
また安永元年(1772)には「干潟〆切場」という記録から、さらなる干拓地の拡大が行われました。干潟を開発することで集落経営を成り立たせ、﨑津とともに生活基盤を拡大してきました。