高浜の歴史~準堤観音

準堤観音2

 幕府は邪宗(キリシタン)取締強化の布達を享和2年(1802)に出した。その頃天草西目筋に不音な空気が漂っていた。

 各村の庄屋、僧侶方に村民に仏教強化に努め、神仏を崇め道理を弁え邪宗に走ることが、無きように導くことを任務として課せられていた。

 高浜村の場合、村民を改宗に導くたの特別の方法として、上田庄屋は準堤観音信仰の推進を図った。それには二つの方法を取った。一つの方法としては準堤観音像の印施(絵像を紙に刷った物)を各戸に配布し戸口(家の入口)にこれを貼り付けるよう申し付けた。その家が邪宗でないこと証明しようとしたのである。村中申し合わせ準堤観音信仰専らにしたというのである。二つめの方法は邪宗信仰を持った怪しい集落(白木河内)に準堤観音本尊と御堂を文化元年に建立し、本尊の開眼供養を隣峰寺庵海雲和尚によって行われた。後の結果として「天草崩れ」の際(1805)、心得違いの者が他村では一千あるいは二千数百人であるのに対し、高浜村の場合、白木河内集落を中心に316人と少数に留まったことが注目される。


準堤観音堂

準堤観音1

文責及び監修:松本教夫氏(前高浜地区振興会長)



数日前の夕方、白鶴浜にウミガメが漂着していると地元の人が発見し、海岸に引き上げましたがすでに息はなく、地元の人も、還暦を過ぎたがこういった光景を見るのは2度目ということでした。

海ガメの漂着1

何か外敵に襲われたか、自然死なのか判りませんが、ウミガメは多分自分の生まれた所に帰り、パークボランティアの方や希少動植物調査員などに見送られ埋葬されました。

海ガメの漂着2

新型インフルエンザや口蹄疫など「病」が日本でも流行し、昨年の高浜地区敬老会も新型インフルエンザの流行を危惧し中止としました。今年も敬老会の会議や敬老者への案内など振興会ではじめています。

そんな今、高浜地区振興会前会長の松本教夫氏(前天草ロザリオ館長)から高浜での流行病と献身的治療に当たられた医師についてお話を伺いましたので紹介します。

 

『国連世界保健機構(WHO)は1979年10月27日ナイロビから全世界に向けて宣言した。有史以来、人間社会に多大の犠牲を強いた天然痘からついに人類は解放されたのである。

しかしこの恐ろしい天然痘は、天草の近世(天草の乱から明治維新の期間)では30回以上天然痘が(以下疱瘡と記す。)襲ったことが記録されている。天草における疱瘡の流行は特に西海岸に面した港を所有する所から侵入し流行したようである。高浜での疱瘡が大流行した時期は、文化4年(1807)と安政3年(1856)頃が最も多い。文化4年の例から「12月高浜諏訪の薦助なる者が病名不明のまま死亡し、薦助の病気中、立ち寄った者や、葬儀に参列した者たちが一時に発病し、同月14日までに75人の患者が発生したのである。ただちにこれを山小屋(妙見を望む外平一帯)に隔離し、更に同居家族を除小屋に隔離した。更に新患者が増え61人が死亡したのでである。時の高浜村庄屋上田宜珍は、肥後宇土郡硴の江村から医師宮田賢育を招き、徹底した治療にあたらせ賢育は単身山小屋に泊り込み治療に専念する。賢育の献身的治療により疱瘡も下火になり硴の江村に帰るが、宜珍の養成によって再び高浜村に移り住み医療にあたる一方漢学の師として村人の指導にあたる。文政11年(1828)70才で高浜村で逝去。宮田賢育は「天草医療の先達」として、平成元年11月26日天草郡医師会創立100周年記念式典にて表彰を受ける。』


宮田賢育先生1

高浜小学校近く、高浜駐在所の上にひっそりとお墓があります。

宮田賢育先生2

宮田賢育先生の献身的な偉業をたたえて。



お盆がすぎ、朝晩は朝晩は涼しく感じられるようになりましたが、甲子園は九州勢や九州学院の活躍で地元も熱く、特に天草出身の選手がこれほど活躍する大会はなかったと思います。

そんな中、今日の熊日朝刊に高浜出身(諏訪地区)の松下晋也君が九州学院野球部バッテリーコーチとして甲子園に帯同しチームを支えていている記事が紹介されていました。いい記事だと感じました。晋也君のお父さんも振興会設立から役員をされていて、各方面で地域を支えています。

お盆の精霊流しも振興会も色んなひとに支えられ行われます。毎年、精霊流しのレイアウトや撤収も色んなアイデアが出て自ら実行されています。「支える人がいるからこそ表舞台が輝く」と一層想うような朝です。

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