どんくタイトル
2-11流人
 江戸時代、遠島に処すべき罪を定め、遠島の島として江戸流刑の者は、伊豆大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島の七島の内に遣わした。
 京都、大阪、中国、西国より流罪の分は、薩摩、五島の島々、隠岐、壱岐、天草の三島に遣わし、情状によっては佐渡に配し、鑛坑吸水の役に服せしめると明確に指定し、
 「遠島処分の者。田畑、家屋、家財を没収する」
と規定している。
 天草には寛文4年(1664年)から天保年間(1830~1843年)までの流人の記録が残されている。
 元禄5年(1692年)肉食、妻帯を戒律とする高野山の僧侶140人が、大阪奉行所から長崎奉行所を経由し富岡代官所に送られて来た。
 この流人たちは、高野山の門前の土産物店の「やり手ばあさん」によって仲介され「女犯の罪」を問われた人達であると言われる。
 また、牛深市歴史年表には、「1692年年(元禄5年)高野山配流僧140人、此の内、久玉組領7人」となっている。此の内の一人が作っていた畑があり、船津の浜崎与三郎さん宅の上にある畑が其の一つで、「坊主畑」と呼ばれ、他に流人達もいたらしい。点々と松林の中に石だけを載せた墓が三つほどあった。
先に配流になった人の墓もあるかもしれない。この他、139人の流罪人を出身地別にすると、
     江戸  108人     長崎   8人
     天草    7人     美作   7人
     日向    3人     豊後   3人
     讃岐    2人     豊前   1人
 
(森永 種夫著「流人と非人」より)   
 浅海には、島津六左衛門と名乗る武士が、湾の入り口「八幡」にいたと伝えられ、屋敷跡には「恵比須様」が祀られていたが、盗難に遭い後に「八幡様」が祀られた。
 深海に伝えられる流人ではなかったかと思われる人は「えったどんの屋敷」と言われる所に住んでいた人で、それは、浦河内の前田にあり、その人の子孫に後年(明治40年)久玉小学校との野球試合に逆転ホームランを打った人がいた。
余談になるけれども、かれの服装はいつも「つのん棒」草履に、縄の帯、筒ぽう袖、尻切れ半てんのいで立ちであった。
 其の外、伝えられた話では、「若市」の上に女忍者が盗みの罪で捕らえられ父親と共に住んでいた。木の葉隠れの術をよく使う女だったと(父鶴長伊喜治)より聞いたものである。
 流人が島抜けした場合、庄屋、年寄りが代官所よりお叱りがあるので、なるだけ特別扱いはしなかった。流人は、公然と妻帯することは許されなかった。いわゆる、「水汲み女」と呼ばれた「内縁の妻」は、流人のための水汲みや身の回りを世話するなど、さらに進んで、夫婦の契りを結んだ者を「水汲み女」と呼ぶようになった。再び故郷の土を踏むことの望めない流人たちにとって、優しく情の深い島娘はどんなにか慰めとなり、荒んだその心を和らげたことであろうか。
 なお又、次の様な著書もある。
 
【大隈 三好著、「流人の生活」より】
 長崎代官の記録に、天保8年(1837年)に島抜けした「安吉」なる男の届け書に例をとれば、
一、 1ケ(但し1升釜、1個)
二、 1ケ
三、 茶碗 3個
四、 古膳 1枚
五、 水田子 1荷(みずたご 水桶)
六、 水瓶
七、 摺り鉢
八、 摺り子木 1本
九、 水たらい 1ケ     
十、 手水たらい 1個
十一、 古畳 4枚
十二、 茶碗
の12品目で其の生活ぶりもうかがい知る事ができる。流人の中に志岐村の清吉、久玉村の万之助、碇石村の才之助の様に喧嘩して問題になるような者もいたが、深海の流人に問題になるような出来事はなかった。