深海の「地蔵さん」巡り (番外編①)

浦河内の山ん神祭り

(山ん神祭りは、旧暦の11月最初の丑の日)

お赤飯を供えてあります。

Wさんの「神様の刀は右の腰に差してある」との指摘により調べましたところ、

何と「山ん神様」は「左利き」だそうで、それで右の腰に差してあるのだそうです。

なお、注連飾りの縄もすべて「左ない」になっているそうです。

(でも、神様は右手に持っていられうるようです)

  

浦河内の人たちは。朝から「山ん神様」にお供え物をし、火を焚いて

「今日1日は山に入ってはいけない」ことを昔の慣わしどおりに煙で皆に知らせている。

(Wさんは、子どもの頃ここのご馳走を頂いたのが、楽しい記憶としてあるそうだ)


「キリシタン宗門は累年御制禁たり 自然不審者これあらば申し出ずべし」

こんな「高札」(立て札)が庄屋の家の前に立てられた。この期の事であった。

深海村のある青年が無実を訴えられ、富岡へ引かれる日が

「11月の最初の丑の日」つまり「山ん神祭り」の朝であった。

村人は親孝行の青年を惜しみ「せめて小豆飯」でもとの心配りから

朝から祭りをして青年を送り出すことになった。

しかし、庄屋・年寄りの赦免願いも空しく彼は帰らなかった。

 そのことがあってから、彼を偲ぶために山ん神祭りは「朝祭り」となったそうだ。

(どんくのつぶやき=3-9)

ここの写真は平成16年のものです。平成18年2月15日up


平成18年の山ノ神祭り

今日あいにくと雨になりお祭りも早々に切り上げ

 

建立年月日は昭和35年となっている

このことについては、こんないわれがある。(谷川区長談話)

以前は現在地より500~600メートル程上流に祀られていましたが、

神様はたびたびの大水で流され、そのたびに区民は川底をさらえて探されたそうです。

或る年の大水でどうしても神様が見つからなかったそうです。

そこで区民話し合いの末現在地に移転されたそうです。

しかし、現在地も当時は低い地盤でこちらでも流されたそうです。

そこで区民総出で地盤をあげ石垣を築きその時に神様も新調されたのでしょう。

その時が昭和35年です。

上流を見てきました。両側とも最近護岸工事がなされていました。

500~600メートルほど上流の所にあったということでした。

だから今無人精米機が置いてあるあたりを字名は「木置場」ですが、

通称「山ン神前」と言うそうです。

ここで護岸工事は終わっています。どうやらこの付近に祠があったらしいです。

今年は旧暦11月最初の丑の日が新の12月26日に当たるので

ちょうど年末で忙しいからと旧10月最後の丑の日に変更になりました。

(平成18年12月14日)


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