明治四十四年四月三日「天草新聞社」を創設、その社長となった。
もちろん天草の郷土新聞の草分け。これに刺激されて大正十二年ごろから
「みくに」「不知火新聞」「天草タイムス」が発刊され、さらにその後「報国新聞」「海の天草」
「天草体育新聞」「苓州時報」「天草民友」などが消長した。
現在の「天草民報」は昭和二十一年、「天草新聞」は同二十三年の発刊。
明治四十二年天草新聞社発行の天草紳士録によると創立当時のメンバーは次のようになっている。
社長 塩田平治(宮地)理事 中野猛雄(碇石)会計 中村猶市(本戸)
編集 村上一二(熊本)元田重雄(宮地)営業 中村貞彦(本戸)田下勇作(宮地)
印刷 世良寅次郎(長崎)島谷周助(長崎)横山繁光(本渡)徳田作市(長崎)矢田新吉(牛深)山下由吉(櫖宇土)
天草人にとっては忘れ得ないなつかしい人々が並んでいる。
塩田は明治四十三年には社長を中野猛雄に譲り、自らは取締役となった。
新聞の方は大正十年頃から組合運営となり、まもなく五百号ぐらいで自然消滅した。
この間、天草裁縫女学校 修身科、大多尾小樫ノ浦分教場、大牟田市女学校などで教鞭をとったこともあった。
また夫人の父、岩崎玄甫という人が広瀬淡窓塾出の漢方医であるところから、塩田の家でも家伝の
「清腹散」や「大正湯」を販売した。
つづく